龍血の少女 七
魑潮は人間の姿をしていても鬼族と龍族の合いの子なので、人間の医者に来てもらうわけにもいかない。
布団に寝かせた彼女を姉ふたりが診るあいだ、俺は役人に廃寺の一件を報せに行っていた。
宿に戻った頃には空はだいだい色。
遠くのほうで鳥が鳴き始め、そよ風に夜の涼しさがまざりはじめている。
部屋に入ろうか迷ったが、声だけかけて廊下で待つことにした。
障子が開いて魅狐が出てくる。
「どんな様子だ?」
「まぁ、大事はなさそうじゃ。一晩寝ていれば回復するじゃろう」
彼女の顔には安堵の表情が浮かんでいた。
それを見て俺も胸をなで下ろす。
「しかしあやつをあれほど弱らせるとは……その妖怪なかなか恐ろしいやつであったのじゃな」
きっと人間の娘たちはひとたまりもなかっただろう。
あの大蜘蛛女、若さと美しさを手に入れるためとか言っていたか。
それで他者の命まで奪おうとは……。
女の美に対する執念というのは男が思っている以上に強いものなのかもしれないな。
「そのような魔の手から魑潮を守り、無事に連れてきてくれるとはのう……」
ささやきながら、魅狐が俺の胸に顔をうずめた。
「心より感謝するぞ仁士郎よ。ますます惚れ直したのじゃ」
どぎまぎしながら辺りを見て、ひとけがないことを確認する。
それから彼女の頭を撫でた。
大きな狐耳のもふもふとした手触りが心地良い。
「おまえたちがあいつを大切に思っていることを聞いていたからな。是が非でもと思った。それに、おまえたちの妹なら俺にとっても妹のようなものだ」
「ほほう?」
くすぐったそうに額を押しつける魅狐だったが、名残り惜しそうに体を離した。
「もっと熱烈なこともしたい気分じゃが、あいにくそうもいかぬ。魑潮の連れに会いにゆかねばならんのじゃ」
「連れ?」
「和修吉、摩那という男女と共に旅をしておったらしい。笹野屋という旅籠に滞在してるので、自分がここにおるのを報せてきてほしいとのことじゃ」
夜も近い。
賊の根城に乗り込んだまま帰ってこなかったらそのふたりも心配になってしまうだろう。
「それなら俺がひとっ走り行ってこよう」
「しかし、おぬしは戦ってきたあとで疲れておろう?」
「使いくらいはできる。なにより、おまえたちがそばにいたほうが魑潮も安心だろう」
「仁士郎……」
俺がここにいたところで何も出来ないからな。
どうやら魑潮には嫌われているようだし。
なにか役目があるのはむしろありがたい。
「いいえ、私が行ってきます」
と、再び障子が開いて緋澄が顔をのぞかせた。
「どうせ私はお餅みたいにぷくーっと太っていますから、少しでも動いてお肉を減らさないといけませんし」
まさしく餅みたいに頬を膨らませてぼやく。
さっき一応謝ったはずだがすっかりヘソを曲げてしまったらしい。
ひいてはこれも美に対する執念ゆえか。
「緋澄……誤解があるようだが、俺は良い意味で言ったのだぞ」
「良い意味なんてないです」
「それに太っているとも言っていない。肉付きが良いと言っただけだ」
「同じことです」
「男心をくすぐる立派な体だ。誇りに思っていい」
「くすぐりたくないです」
駄目か。
目も合わせてくれない。
魅狐は助けてくれる気がないらしく、むしろ面白がるように眺めているだけだった。
「だ、だから、そういう部分が非常に女らしい魅力にみちあふれていて、俺はおまえに夢中だということを言いたかったのだ」
「えっ」
「抱き心地が柔らかくて気持ち良いしな。魅狐ではないが、ついつい抱きつきたくなってしまう瞬間があって、いつも苦労している。それくらいに惚れているのだからな」
「そ、そうだったのですか……」
少し言い過ぎかとも思ったが、緋澄はデレデレと頬を緩ませた。
「だから痩せる必要などない。そのままの緋澄でいてくれ」
「はい、そうします……。あの……仁士郎様が抱きつきたくなったときは、いつ抱きついていただいても私は構いませんから……」
そして朱を散らした頬を両手で包み、はにかみながら甘い声を出した。
どうにか機嫌を直してくれたようだ。
単純なやつで助かった。
「なら今でも良いか」
返事も聞かずに抱き寄せる。
「わっ……」
と、自分で構わないと言っておきながら緋澄は驚いて身をすくめた。
肉感的であるぶん魅狐より緋澄のほうが体温が高いのか。
戦いの冷たい緊張感をほぐしてくれる、人心地つく温もりだった。
「……ふ〜ら〜ち〜」
どこからか怨霊のような声。
少しだけ開いた障子の向こうから、布団に横たわる魑潮が凄い目で睨んでいた。
……人の目もあるにはあったか。
「で、では行ってくるぞ」
◆
「あっ、仁士郎の旦那!」
宿の外に出たところでばったり弥平さんと出くわした。
「戻られたと聞いて飛んできましたよ。いや、ともかく無事でなによりです……」
目にうっすらと涙を浮かべる弥平さん。
今日会ったばかりの俺をこんなにも心配してくれるとは、やはり彼はいい人なのだろうな。
「そうだ、あのとき刺された番頭さんなんですがね、どうにか一命を取り留めたらしいですよ」
「そうですか。それはよかった」
「姐さん方がすぐ手当てしてくれたのが大きかったようで。そのお礼も言付かってきたんです」
「ふたりも喜ぶでしょう。伝えておきます。ところで弥平さん、笹野屋という旅籠に行きたいのですが場所を知ってますか?」
「笹野屋さんですか、ええ、わかりますよ。案内しやしょう」
「たのみます」
◆
「どうにも……ひでぇ有り様だったみたいですね」
「俺が行ったときには、すでに生きてる娘さんはいませんでした。……無念でなりません」
「そんな、旦那が気にすることありませんよ。きっちり仇は討ってくれたんでしょう?」
「そうは言っても」
「その娘さんたちや、ご家族の前では口が裂けても言えませんけどね……お鈴ちゃんが同じ目に遭わなくて本当によかったと思ってんですよ俺は。それは旦那が助けてくれたからじゃないですか」
「弥平さん……」
「旦那には足向けて眠れません。このご恩は一生忘れませんからね」
「その気持ちがあるなら、お鈴さんにもしっかり告白できそうですね」
「そ、そんな、それは気が早ぇですよ……。けど、前よりは、なんだか上手くいく気がしてきてます。もうヤケ酒をする気もありませんし。それも旦那がいてくれたこそですよ」
きっと、あのならず者たちに立ち向かえたことで自信がついたのだろう。
もともとやればできる人だったのだ。
酒さえ入れば、刀を差した人間相手でも臆せず啖呵を切れるような人なのだから。
「ああ、ほら、あそこの大きい建物が笹野屋さんです」
◆
弥平さんにお礼を言って別れ、俺は笹野屋と書かれた暖簾をくぐった。
「御免。俺は勇薙仁士郎という者だが」
「へぇ、いらっしゃいませ、おひとり様でしょうか」
「申し訳ない、客ではなく人捜しで参りました。ここに和修吉、摩那、魑潮という三人連れが泊まっているはずなのですが」
「たしか、そのお三方なら……」
番頭さんは宿帳を開く。
「ええ、昨日からお泊りいただいております」
「もし部屋にいたら、魑潮のことについて話がある、と呼んできてくれませんか。大事な用件なのです」
「わかりました、少々お待ちを」
番頭さんが奥に下がり……ほどなくして、若い男女の二人組が姿を現した。
「あなたが勇薙殿……? 魑潮になにかあったのですか?」
不安げな表情を浮かべるふたりとも金色の髪。
もしや彼らも龍族なのだろうか。
◆
彼らの泊まる一室に通されて、俺はことのあらましを説明した。
「……そうでしたか。ひとまずは、魑潮を助けてくださりありがとうございました」
和修吉さんが深々と頭を下げてくれる。
理知的で穏やかそうな人だ。
「もう、無茶ばっかりするんだから……でも大怪我をしてなくてよかった」
摩那さんがホッとした表情で微笑む。
小柄で丸っとした顔が愛らしい。
ふたりとも年齢は俺と同じくらいだろうか。
「でも、まさか助けてくださった方が魑潮のお姉さんのお連れさんなんて……巡り合わせってあるものなんですね」
お互い旅をしていて、たまたまこの日にこの町へ立ち寄った。
そこで出会えるというのも考えてみれば奇跡的なことだ。
強く再会を願う姉妹の気持ちがそんな奇跡を生んだのではないかと、少しだけ信じてみたくなった。
「魑潮は龍の里を追放されたと聞きましたが、それでなぜ同族のあなた方と旅をしているのです?」
「それは……」
ふたりは眉根を寄せて顔を見合わせた。
もしや軽々しく聞いてはいけないことだったか。
「魑潮が追放されたのは、あたしたちのせいなんです……」
意を決したように摩那さんが言い出したのを、和修吉さんが引き継ぐ。
「僕らの里では親同士の取り決めで結婚相手を決める掟なのです。僕と摩那もそれぞれ別の相手と結婚することになったのですが、どうしてもそれに納得することができなくて……」
目配せをする様子などからして、このふたりは親密な仲なのだろう。
察するに、ふたりが結ばれることを親に認めてもらえなかったということか。
「しかし里の掟は絶対です。従わなかった僕らは罰として追放となり……僕らをかばってくれた魑潮も巻き添えで追放となってしまいました」
「あたしたち三人は小さい頃からの友達なんです。魑潮は掟にも構わずずっとあたしたちの味方をしてくれてました」
「追放されたあとも、僕らが『結の里』まで行くのに付き添うと言ってくれて……それで三人で旅をしているのです」
「なるほど、そのような事情が……」
掟に反してでも結ばれたいと強く思い、それを貫くふたりの行動は立派だ。
そして友達のために甘んじて罰を受け入れる魑潮もまた立派に思う。
「あの魑潮というやつ、性格は乱暴だが、なかなか情にあついところがあるのですね」
「ええ。ちょっと不器用なところもありますけど、心根はとても優しい子なんです」
誇らしげに言う摩那さん。
曇りのない彼女の表情がなにより言葉の説得力を高めていた。




