妖化の仁士郎 前
なにやら規模の大きい話に巻き込まれてしまったようだが、俺の目的は祖父の仇である魎鉄を斬ることだけだ。
今までは当てのない旅をしていたが、こいつについていけばいずれ奴にたどり着ける。
命の恩もある。
拒否する理由はどこにもなかった。
いつまでも山頂にいても仕方ないので、俺たちはふたり並んで夕日に染まった山道を下りていく。
その道中で魅狐が先ほどの話を再開させた。
「我が父、鬼の王は五人の妻にひとりずつ子を産ませたのじゃ。鬼の妻との子、獣の妻との子、妖の妻との子、人の妻との子、龍の妻との子……」
妖の妻との子が魅狐であるという。
鬼と妖怪の合いの子とは……完全に俺の想像を超えた存在だ。
とはいえ俺も今や半人半妖の身。
面妖さでいえば似たようなものだろうか。
「そして鬼の王が死んだことで、その五人の子による後継者争いが始まったのじゃ」
「どうすれば次の王になれるのだ?」
人間の場合、殿様が亡くなったときは長男が跡継ぎになると相場が決まっているのだが。
「王の子たちによる合議で決められる。わらわの場合は、すなわち他の四人に認められればよい。兄弟全員が認めた者だけが次の王となれるのじゃ」
「話し合いですんなり決まるものなのか?」
「決まるわけなかろう。……それゆえ」
不意に魅狐が立ち止まった。
俺も足を止めて彼女の視線の先を見る。
すると、道の先、木の陰から一体の鬼がぬぅっと姿を現した。
こいつは……先ほどの鬼!
「こうして、わらわの命を狙う刺客がひっきりなしにやってくるのじゃよ。反対する者を消してしまえば話が早いからのう」
「キシャシャ……見つけたぞ、妖姫魅狐よ。我が主のため、この蜂鬼がその命もらい受ける!」
「貴様は!」
間違うはずもない。
俺はこいつから受けた毒によって死にかけたのだから。
「キシャ……!」
と、俺の姿を思い出したか、蜂鬼も驚いたように目を見張った。
「馬鹿な……たしかに毒虫の呪術を受けたはずだ。なぜ生きている!」
「人間の俺はたしかに死んだ。お前の目の前にいるのは、半妖となって新たな生を受けた勇薙仁士郎だ」
俺は居合いの構えを取る。
「死出の土産に覚えておけ」
圧倒的とも言える力の差を忘れたわけではない。
しかし、今は不思議な自信に満ち溢れていた。
渡り合える。
本能的にそう思えたのだ。
「魅狐よ、下がっていろ。こいつにはしなくてはならない礼がある」
「うむ。一角級の鬼であれば、妖化したおぬしの力試しにはちょうどよいかもしれんの」
魅狐が後ろに離れていく。
「仁士郎……死ぬでないぞ」
まるで祈るような呟きを残して。
「無論だ。おまえにもらった命、無駄にはしない」
蜂鬼はそんな彼女を目で追ったが、すぐに俺へと視線を戻した。
「妖術で蘇ったというわけか。ならば今度は再起できぬよう、我が最大級の毒でその身を腐り溶かしてくれる!」
言い終わるや否や、一足飛びに襲いかかってきた。
俺は先んじて刀を抜き打つ。
手応えあり。
振り抜いた切っ先が蜂鬼の胴体に血の斜線を描いた。
斬れた……!
皮一枚も斬れずに弾き返されてしまった鬼の肌を、今度はしっかりと斬ることができた。
これが妖の力ということなのか。
「仁士郎、油断するでないっ!」
魅狐の声でハッとしたときには遅かった。
蜂鬼は一太刀受けたにも関わらず、まるで怯むことなく懐に飛び込んできたのだ。
太く大きな両手が赤い光を帯びた。
「悶え死ね! 蠱毒猛撃拳!」
拳の連打を叩き込まれる。
先ほどは一撃受けただけで吹き飛ばされ、重傷を負ってしまった。
だが今は、その連打を受けても、一歩よろめいただけで踏み止まることができた。
体に力が満ち溢れている。
痛みもほとんど無い。
「ムッ……!」
俺の変わりように驚いたか、蜂鬼は怪訝な顔で後ずさった。
たしかに胴体を袈裟がけに斬り裂いたはずだ。
人間なら命に関わる重傷のはず。
だが鬼にとってはその程度、大した怪我ではないのかもしれない。
恐ろしい生命力だ。
「ならば!」
俺は鋭く踏み込み、蜂鬼の足を斬った。
「ヌッ!?」
そして倒れかかってくるところを狙い、首筋に刀を振り上げる。
蜂鬼の頭が血の尾を引いて宙を舞った。
刀についた血を振り払い、鞘に収める――鍔鳴りと同時に、蜂鬼の頭が地面に落ちた。
◆
蜂鬼を素早く斬り殺したことで、俺の体に送り込まれた毒も効き目を発揮する前に消え去ったらしい。
「人間であれば即死していたじゃろうがな」
改めて、俺は自分の体の変化に驚いていた。
圧倒的な鬼の力にも負けない強靭な体。
そして鋼のような鬼の体をも斬ることができる腕力。
戸惑いよりも高揚感のほうが勝っていた。
「この力があれば、俺は鬼と戦える……! 感謝するぞ魅狐よ」
「妖化した肉体は元より、おぬしの剣の腕もなかなかに見事じゃな」
「ああ。お祖父に鍛えられたからな」
俺は自分が旅立った経緯をかいつまんで話した。
唯一の家族だった祖父を五本角の鬼に殺されたこと。
祖父の遺志を継ぎ、俺がその鬼を斬ると決めたことを。
「しかし相手は強大じゃぞ」
「お祖父が返り討ちに遭ってしまうほどのやつだからな」
「そんな生易しい話ではないのじゃ」
魅狐の表情に深刻さが混じる。
「鬼の強さは角の数で決まるのじゃが」
この蜂鬼とかいう奴もそんなことを口走っていたな。
「わらわの父、先代の鬼の王でさえ四本角であった。五本角の鬼というのは長い歴史の中でも魎鉄だけなのじゃ」
「そうなのか……」
それを聞いて、恐ろしいと思う反面、どこか安心している自分もいた。
お祖父は凡百の鬼に負けたのではない。
稀代の強さを誇る鬼に負けたのだ。
負けて当然……とは思いたくないが、少なくとも面目は保たれた気はした。
「恐れをなしたか?」
魅狐が試すような視線を向ける。
俺は首を横に振った。
「正直、恐ろしい敵だとは思った。だが臆しはしない。相手がどんな者であろうとも、挑むのを恐れるのは男のすることではないからな」
「ふふ、その意気じゃ」
「それでその魎鉄と、先ほど言っていた鬼の王の後継者争いとがどう関係してくるんだ?」
「魎鉄はわらわの兄じゃ」
さらりととんでもないことを言うやつだった。
「鬼の王と鬼の妻との間に生まれし子。五兄弟の長兄にして最強の鬼。それが鬼王子魎鉄なのじゃ」
「兄……? では、先ほどの鬼を刺客として送ってきたのも奴なのか?」
「ふん……腹違いの兄と思うことすらおぞましいのじゃ」
魅狐が吐き捨てる。
黄金色の目には心からの嫌悪感が滲んでいた。
「恐怖と暴力ですべてを支配し、好き勝手に暴れ、従わぬものは有無を言わさず殺してしまう……あんな奴が王となったら鬼の世のみならず妖の世も人の世も終わりなのじゃ」
彼女の持つ感情は果たして義憤だろうか。
それだけで自分の兄を怨敵とまでは言わない気がする。
俺が抱いている私怨に近いものを彼女も抱いているのかもしれない。
同じ匂いがする者はなんとなくわかるものだった。
「魎鉄はわらわたち五兄弟で唯一純血の鬼。従う者も多い。二番目の兄も奴の軍門に降ったと耳にしたのじゃ」
「最も王に近いとは、そういう意味か」
「わらわの力では到底奴らに敵わぬ。おぬしが魎鉄を斬ってくれるのなら、わらわにとっても都合が良いというわけなのじゃ」
「しかし、それでもおまえにとっては兄。構わないのか?」
「妹でさえも平気で殺そうとするやつじゃ。情けは不要と心得よ」
「成る程……そちらの事情はわかった」
俺は魎鉄を斬りたい。
魅狐は鬼の世の王となるため魎鉄を倒したい。
行く道は同じだ。
「命の大恩に報いるためにも……俺の剣、今日よりおまえのために振ろう、魅狐よ」
「うむ、よろしく頼んだぞ仁士郎よ。……裏切ったら承知せんからな?」
そのとき、魅狐の瞳にわずかな翳りが垣間見えた気がした。
そもそもなぜ彼女はこんな山奥にたったひとりでいたのだろう。
仲間はいないのか?
「安心しろ。武士の口約束は金剛石より硬いものだ」
「言いよるのじゃ」
魅狐は細い目をさらに細めてゆるりと微笑む。
一瞬前の寂しげな眼差しはどこかになりを潜めたあとだった。