弄殺の糸鬼 四
首に包帯をぐるぐる巻きにされたためほとんど左右に動かせなくなっていた。
半妖の体というのは凄まじいもので、あれほど深い傷を負ったというのに今や完全に血が止まっている。
人間体のままであったらとっくに血を流し尽くして死んでいただろう。
つくづく鬼というのは恐ろしい敵だ。
「はい、背中拭き終わりました」
この怪我では風呂に入れないということで、緋澄が濡らした手拭いで体を拭いてくれていた。
ほうほうの体で辿り着いた旅籠の一室。
外はすっかり暗くなっている。
「世話をかけるな」
「いいえ、これくらいはなんでもありません。さぁ下も脱いでください」
「い、いや、あとは自分で拭けるからいいぞ」
「無理はいけません。……正直に言うと恥ずかしいですけれど、私、頑張って拭きますので」
そんなことは頑張らなくていい……。
「……はぁ」
ぼんやりと部屋の隅にうずくまった魅狐が何をするでもなくため息をついた。
夕方の一件以降ずっとこんな調子だった。
話しかけてもろくに口を聞かず、食事も取らない。
どこか上の空でじっとしているだけだ。
落ち込む気持ちもわかるので、俺も緋澄もそっとしておくことに決めたのだが、そろそろ心配になってくる。
それにしても落ち込みすぎではなかろうか。
「いえ、決して、仁士郎様の裸が見たいとか、体に触れたいとか、そのようなやましい気持ちは一切なくてですね、ただ単純に、お怪我に差し障ってはいけないという一心で……」
妙に鼻息を荒くする緋澄の手が俺の褌にかかったとき、おもむろに魅狐が立ち上がった。
そのまましずしずと部屋を出て行こうとする。
「姉様……どちらへ?」
「少し夜風に当たりに行くだけじゃ」
「そんな、おひとりで出歩くなんてダメです」
あんなことがあった直後だから緋澄も余計心配になるのだろう。
たしかに俺も迂闊と思う。
「……ならばおぬしらもついてくるがよい」
◆
どこかで行われている酒盛りの賑やかさが遠くに聞こえる橋の上。
魅狐は欄干にもたれかかって暗い川面に映った月をじっと眺めていた。
涼しげな夜風が彼女の狐耳とふかふかのしっぽを揺らしていく。
ふと、その黄金色の瞳が俺の首元へと向けられた。
「すまぬな、仁士郎。痛かったであろう?」
抑揚の欠けた声。
それでも俺を気遣う気配は充分に感じ取ることができた。
「気に病むなと言っただろう。もう済んだことだ」
返事はなく、代わりに視線が緋澄へと移る。
「緋澄、怖い思いをさせてしまったのう。まったくひどい姉じゃ」
「そんなことはありません。姉様こそ、他の人に体を操られるなんて、とても怖かったでしょうに……」
「魅狐、自分を責めるのもそのくらいにしておけ」
普段は飄々としているものの、ひとりで思い詰める癖のある彼女だ。
このままでは延々と塞ぎ込みかねない。
「こうして俺たちも無事に……いや、多少の傷はついてしまったが、ほんの多少だ。三人とも生き延びられた、それでいいではないか」
「そうもいかぬ。わらわは此度の件、深く反省しておるのじゃ」
「敵が巧妙だっただけだろう。おまえが反省することはない」
「これは深刻な反省案件なのじゃ」
魅狐は頑なに首を振る。
「いつ刺客が襲ってくるかわからぬから油断するなと偉そうに忠告しておいて、わらわが虚を突かれていては世話がなかろう」
「とは言ってもな。嗅覚に優れたおまえにも気付かれぬよう術を仕掛ける鬼だったのだぞ。あれ以上はどうしようもない」
敵のほうが一枚上手だった。
それは仕方のないことだ。
俺がもっと上手く立ち回れば怪我を負わずに勝てたのかもしれないが、自由を奪われていた彼女には何の落ち度もない。
「まさしく問題はそこじゃ。わらわが正常な状態であれば仕掛けられる前に看破できたはずなのじゃ。それをみすみす……」
正常な状態なら……?
「体の具合が悪かったのですか?」
「そういうことではなく……むぅ……」
魅狐は俯いて口をもごもごさせる。
めずらしく歯切れが悪い。
「このようなことが二度とあってはならぬ故……言うべきではないかもしれぬが、正直に白状するのじゃ」
意を決したように上げられた顔はいつになく真剣な表情をしていた。
それでも瞳の奥は迷いに揺れているように見える。
何を白状するというのか……。
俺と緋澄は固唾を飲んで言葉の続きを待った。
「ここ最近のわらわは……どうにも心が乱れておる……」
「おぬしらが仲良くしている姿を見ているとじゃな……胸の奥がざわざわとして、息苦しくなって、ひどく落ち着かない気分になってくるのじゃ」
「そのことに気を取られて敵に付け込まれるような隙を生んでしまった……それであのザマじゃ」
魅狐は顔を隠すように背中を向ける。
細い肩がかすかに震えていた。
「むろん、ふたりの仲は嬉しく思っておる。だからこそ……おぬしがあのようなことを言い出すからいかんのじゃ」
あのようなこととは言うまでもなく、ふたりともが好きだと告白した件だろう。
俺の気持ちは今も変わっていない。
だが、そんな身勝手な思いが彼女を苦しめていたのだ。
「己の気持ちに気付かされてしまったのじゃ。気付かずにいればよいものを……」
「あの夜以降、おぬしに対する気持ちが……熱く燃え盛る炎のような気持ちが、日ごとに大きくなってきて、身を焦がす……」
「……書物を読んで知ったつもりになっておったが、成る程、これが恋心というものなのじゃな」
「とはいえじゃ。おぬしらの邪魔はしとうない。わらわはそばで見ているだけでよい。ただ、この気持ちをどう抑えたらよいものか、それがわからずにいるだけなのじゃ……」
◆
緋澄の手が俺の背中に添えられる。
それに押し出されるようにして、俺は後ろから魅狐の細い体を抱いた。
「つらい思いをさせてしまったな、魅狐」
いつかは逃げられてしまった肩。
今度はしっかりと摑まえることができた。
「だが、ひとりで思い悩むのも、寂しい思いをするのも、今日で終わりにしよう」
「よすのじゃ仁士郎……緋澄が見ている前でこのようなこと……」
魅狐は首をすくめて身を固くする。
しかし俺の腕を振りほどこうとはしなかった。
「姉様……すみません。私ずっと浮かれていて、姉様がそんなに悩まれているというのに気がつくことができませんでした」
「緋澄……」
「でも、私に遠慮をしているのだとしたら、もう悩む必要はありません」
緋澄は声を明るくして告げる。
「だってそうです。仁士郎様は、私たちふたりのことを同じくらい好きだとおっしゃってくださっているのですから」
「だから、それがじゃな……」
「私も仁士郎様のことが好きです。姉様も仁士郎様のことが好き……つまり奇跡的なことに三人で相思相愛なのです! 何も問題はないと思います」
「問題大ありじゃ……」
簡潔な答えに圧倒されて、魅狐はしばし声にならない声をただよわせた。
「おぬしこそ、わらわに遠慮をしてそのように言っておるだけで、やはり好きな男のことは独占したいものじゃろ……?」
「私は心から言っています。仁士郎様であれば、きっと私たちのことを等しく大切にしてくださるはず。そういう方ですから」
「そ、そもそも人間の社会は一夫一妻が基本じゃ」
「私も仁士郎様も体の半分は人間ですけど、もう半分は違います。妖の世界には一夫一妻でなければならないという決まりはありませんし」
「ぬっ……」
……そうなのか。
なにやら心強い大義名分を得た気分だ。
「ですから姉様、ふたりそろって仁士郎様のお嫁にしてもらいましょう!」
うららかに告げる緋澄の顔は、たしかに無理をしたり遠慮をしている様子ではない。
「ぬぬ……」
「それとも逆に、私がいるのがお邪魔なのでしょうか……?」
「そ、そのようなことは断じてないのじゃ」
「よかったです。では決まりですね?」
控えめな性格に見えて案外押しの強い緋澄である。
自分に自信が持てるようになったからか、本当に頼もしくなったものだった。
「ぬぬぬぬ……」
魅狐は苦悶のうめき声を上げるも、最後にはなにかを吹っ切ったように長い長いため息をついた。
◆
「……ということはじゃ、緋澄よ」
にわかに魅狐の声に感情が戻りはじめる。
「つまり、わらわと仁士郎が抱き合ったり、口を吸ったり、もっと、その……男女のあれやこれやをしても、おぬしは傷付かぬのじゃな?」
「私もしてもらっていることですから。むしろ姉様にもあの素敵な気持ちを味わってもらいたいです」
仏か、おまえは。
「ならば……もう我慢せんのじゃっ」
魅狐はクルリと体の向きを変えて俺の首に腕を回す。
そして飛びつくように唇を奪われた。
「正直に答えよ。緋澄とは何回口付けしたのじゃ?」
すぐ目の前に、頬を染めた悪戯っぽい微笑。
調子が戻った、というより生まれ変わったように晴れ晴れとした魅狐がそこにいた。
「い、いや、何回と言われてもだな……」
「わらわにも同じ数だけしてくれねば不公平なのじゃ」
言い終わらぬうちに、魅狐は自分の唇を何度も俺の唇へと当てがった。
今までは迫ってみても冷たくあしらわれるだけだったが、彼女のほうからこのようなことを……。
そっけない態度の裏で心のうちにはこれほど激しい熱情を秘めていたとは。
春風のような温かさが胸に満ちてくる。
もっと早くに打ち明けてくれればよかったものを。
……とも思うが、緋澄のことを第一に考えて自分自身を押し殺していたのだ。
そんな健気さもたまらなく愛おしい。
唇だけでは飽き足らず、ついには舌まで絡めてきたとき。
「そっ、そんなにいっぱいはしてませんからっ!」
と緋澄が泣きつくように俺たちへとしがみついてきた。
「なんじゃ、今さら独り占めしたいと言っても遅いぞ」
「そうではないのですけど……その、私にもしてもらえたら嬉しいのですけど……」
「むろんだ」
緋澄も迎え入れ、両腕の中にふたりを収める。
「これからは俺たち三人、一心同体の一蓮托生だ。ひとりも欠けることなくこの旅を終え……そして、それからもずっと俺のそばにいてくれ」
「うむ」
「白詰草の三つの葉は咲くときも枯れるときも一緒です」
微笑むふたつの顔。
俺のような男にはあまりある幸せだった。
決して手放さないよう決意を込めて、ぎゅっと抱きしめる。
「……一応言うておくが仁士郎よ。緋澄ゆえに特別許しておるだけで、他の女にうつつを抜かしたら承知せぬからな?」
魅狐が笑顔のままぞっとする声を出した。
何もやましいことはないのに無意味にヒヤリとしてしまうのは男の性なのかもしれない。
「あ、当たり前だろう、そんなことは……当然、言われなくとも、そのつもりでいるが……」
声が震えていないことを願うばかりだった。
◆
宿に戻ったあと。
俺はひとり、部屋の真ん中であぐらをかいていた。
ふたりは隣の部屋で就寝しているはずだ。
しかし、魅狐も俺のことを好きでいてくれたとは……。
両手に花とはまさしくこのことを言うのだろう。
こんなに幸せなことがあっていいのか、という気分だ。
自然と顔がにやけてしまう。
「……いたた」
だが、それでもこの痛みは和らいでくれなかった。
操られていた魅狐に噛まれた首の傷だ。
彼女の前では頑張って顔に出さないようにしていたのだが。
血が止まった今でも、ノコギリを押し当てられているような激痛が続いていた。
さっきの口付け責めのときは、至福の瞬間であると同時に、衝撃で死にそうになったものだ。
あいつ、この怪我のことをすっかり忘れているのではあるまいな。
この痛さでは今夜は眠れそうにない。
さて、なにか暇つぶしでも考えることにしよう。
などと考えごとをしていたとき。
音もなく障子が開き、暗い廊下から魅狐が体を滑り込ませてきた。
「ほう、まだ起きておったか。ちょうどよいのじゃ」
むふふ、となにやら企むような笑みを浮かべている。
「魅狐……どうかしたか?」
魅狐はツツツと俺のそばまで寄ってきて、艶めかしくしなだれかかった。
「女に言わせようとは無粋じゃな。恋仲の男女が夜中にすることとなればひとつ以外あるまい」
花のような甘い匂いがただよって心臓が早鐘を打つ。
い、いきなりか……。
いや……普段であれば、非常にありがたい、願ってもない申し出ではあるのだが……。
正直なところ今は首の痛さでそれどころではなかった。
これはどうしたものか。
ばか正直に理由を言えば、またしても彼女が気を落としてしまうということくらい俺にだってわかるぞ。
「その、せっかくだがな魅狐……今日はいろいろあって疲れただろう? 体に障ったら困る。ゆっくり休んでくれて構わないぞ」
「緋澄とは寝たくせにわらわとは寝れぬと申すのか? 」
魅狐は露骨に口を尖らせた。
「……これでもか?」
そして自ら着物の襟を広げる。
白い肩。鎖骨。そして珠のような乳房の谷間までもがあらわになった。
うっ、これはまずい。
俺はとっさに目を瞑る。
こんなものを見せられたらとてもじゃないが正気を保てそうにない。
しかし見たい。触りたい。
うおおおお……。
「このたくましい腕でいつもわらわたちを守ってくれていたのじゃな……」
押しつけないでくれ……!
「むっ、どきどきしておるな……わらわと同じじゃ」
こんなにも積極的なやつだったとは……。
散々ひとのことを助兵衛妖怪と言っておきながらおまえも大概ではないか。
大歓迎だが。
こんな状態でなければ。
抗しがたい誘惑だったが、これで傷口が開きでもしたら情けないことこの上ない。
断腸の思いでどうにか理性を踏ん張ってみせる。
「だが、おまえとは、すでに一度……」
「あのときは、このように燃え上がる気持ちなど持っていなかったので別勘定じゃ」
たしかに俺としても、本能的な獣欲に身を委ねただけの行為だった。
今にして思えば大変申し訳なく思っている。
「ふふ……幻術を駆使して遊女屋を覗いて回った経験がついに生かされるときが来たようじゃな」
「何をやってるんだおまえは……」
「人間社会の勉強じゃ」
彼女の細い指が蛇のように這って俺の頬をなでる。
「焦らすのが好きなのじゃな。……それとも本当に嫌じゃと申すのか?」
「嫌なわけはない。だが、俺としては、その、もっと段階を踏んで、じっくりと愛を育んでゆければよいなと……」
「出会ったその日に夜這いをしかけた者の言葉とは思えぬのじゃ」
そうだった。
墓穴ははるか昔に掘っていたのだった。
「今宵は緋澄には遠慮してもらったがのう」
匂やかな唇が耳元まで迫ってくる。
「いずれは三人で……というのもよいかもしれぬな」
「さっ、三人で……!」
めくるめく極楽浄土な景色を鮮明に思い浮かべてしまい。
「ぐはっ」
俺の鼻から血が噴出した。




