弄殺の糸鬼 三
緋澄は慌てて鞘ごと刀を引き抜いて斬撃を防ぐ。
しかし魅狐は攻撃の手を休めずむちゃくちゃに刀を打ち込み続けた。
甲高い金属音が半鐘のようにかき鳴らされる。
「恐らく妖術でわらわを操っている者が近くにいるはずじゃ、そやつをなんとかせよっ!」
魅狐があえぐように叫んだ。
しかし辺りを見回してみてもそれらしい奴はいない。
先ほどまで茶屋にいた客や店員たちが逃げていく背中が見えるだけだ。
「ほーほっほっほっ! これほど上手くゆくとは愉快愉快!」
そのとき、嘲弄の声が辺りに響き渡った。
「おっと妙な真似をするでないぞ用心棒め。私は糸鬼。察しの通り妖姫魅狐は身縛傀儡の術によって我が手中にある」
彼女たちの命を狙って差し向けられた鬼族の刺客……!
声は聞こえてくるものの、やはり姿は見当たらない。
どこに隠れている?
「魎鉄様に刃向かう愚かな姫君どもには姉妹同士で殺し合う罰が相応しいわ。貴様はそこで見物しているがよい!」
その声に呼応するように魅狐の攻撃が激しくなった。
鍔迫り合いからの体当たりで緋澄を転ばせ、そこを容赦なく斬りかかる。
「わっ……あぁっ!」
緋澄は地面を這って必死に避けるも、追撃の手は緩まなかった。
鋭い斬撃が幾度も振り下ろされて土をえぐる。
「は、早く逃げろと言うておるじゃろうっ!」
「そうしたいのは山々なのですけどっ……!」
緋澄はもとより、操られている魅狐も泣きそうな顔になっていた。
早くなんとかせねば。
だが刀を振り回している者相手に丸腰ではあまりに無力だ。
はじめから俺の刀を奪うところまで含めて敵の策だったのかもしれない。
やむを得ん、魅狐には悪いが……。
「緋澄、足を狙え!」
「姉様……すみませんっ!」
俺の指示通り、振り下ろされた刀を防御すると同時に足払いをかける。
「ぬわっ……!」
魅狐は体勢を崩してその場に尻餅をついた。
その隙に緋澄は脱兎の如く俺のそばまで避難してくる。
「た、助かりました……!」
「怪我はないか?」
「はい……どうにか……」
冷や汗の浮かんだ顔は痛々しく歪められていた。
それは精神的な苦痛によるものだろう。
息が荒くなって髪や服が乱れているが、たしかに斬撃は受けていないようだ。
それで一安心する。
もし少しでも血が流れていたら、他ならぬ魅狐が最も傷付いていたことに違いない。
「すばしっこいやつよ。しかし、次はどうする? こいつを置いてそのまま逃げ出すか? ほほほ、それでもよいぞ」
鬼の嗜虐的な笑い声とともに魅狐が立ち上がる。
絶望的な表情とは真逆に、悠然とした足取りでこちらへ近寄ってきた。
片手に握られた刀が獲物を求めるように小刻みに揺れている。
「そ、その通りじゃ仁士郎、緋澄、ひとまずここは退却して策を練るのじゃ! このままではらちが明かぬ!」
「たわけたことを言うな。おまえを残してどこにも行けるものか」
「ぬっ……たわけはおぬしじゃ!」
今の魅狐は体の自由がまったく効かない状態だ。
俺たちがここを離れたらそれこそ何をされるかわかったものではない。
「おまえたちが逃げ出したあとは、さてこいつをどう弄んで殺してやろうか……」
鬼の声は命を弄ぶ愉悦に満ちている。
「それとも辱めを受ける前におまえたちの手で一思いに死なせてやるか? それも温情だぞ」
じりじりと迫る魅狐。
俺たちは見えない壁に押されるようにじりじりと後ずさった。
「仁士郎様……どうしましょう」
緋澄が弱気な眼差しを向けてくる。
これほど戦いにくい相手もいまい。
卑劣な策を講じてくるものだ。
「安心しろ。必ず無事に助け出す」
今までの経験から考えて、術者である鬼を倒せば魅狐を操っている妖術も解けるはず。
一度に操れるのは一人だけと考えて良いか……?
なんなら三人とも操ってしまえばこんな面倒なことをしなくて済むのだからな。
姿を隠しているのは自分を攻撃されたら困るからだろう。
あいにく俺には鬼の気配を察知することができないが、居場所さえわかれば……。
「緋澄……どこに鬼が潜んでいるかわかるか?」
彼女だけに聞こえるような小声で尋ねる。
緋澄は周りをざっと見回したあと、同じく小声で返してきた。
「茶屋の奥にある木立……きっとそちらのほうです」
「よし。なら、俺が魅狐を押さえつけておくから、その隙に鬼を見つけ出して斬ってくれ」
「えっ」
「危険な役目を任せてすまないな。勝てそうになければ逃げてきていい」
「そんな、危険なのは仁士郎様のほうです。姉様を押さえると言っても、どうやって……?」
「やりようはある。剣術というのは剣を持っていないときでも役に立つものだ」
無手で刀を相手にするのは無謀極まりないことはわかっている。
しかしこれ以上姉妹同士で戦わせるわけにはいかない。
敵が魅狐を手中に収めているのなら、こちらも彼女の自由を奪う。
それで条件は五分と五分だ。
「たとえ俺が斬られたとしても構うな。魅狐を解放してやるのが最優先だからな」
「……わかりました。お気をつけて」
緋澄は逡巡まじりに、それでも力強く頷いてくれた。
覚悟が決まったようだ。
初めて会った頃に比べればずいぶん頼もしくなったものである。
これならば安心して背中を預けられる。
「糸鬼と言ったか、逃げはせん! この勇薙仁士郎が相手になる!」
「ほほほ、面白い、丸腰の侍に何ができるか見せてみよ」
緋澄を残して俺が前に出る。
すると魅狐が――あるいは鬼が、俺へと狙いを定めて刀を振りかぶった。
「何度も言わせるでないのじゃ! わらわのことなど捨て置いてよい! ふたりで逃げよ!」
冷静な魅狐にしてはずいぶんな取り乱しようだった。
自分の体を敵の意のままに動かされている状態とあれば無理からぬことかもしれん。
彼女もつらいだろう。
「そう自棄になるな。すぐになんとかしてやる」
「気休めはよい。わらわの手をおぬしらの血で汚させるつもりかっ……!」
悲痛な顔と言葉に反し、魅狐が勢いよく地を蹴って躍りかかってきた。
先ほどの戦いを見ていて気付いたことがある。
彼女を操っている鬼には、およそ剣術の心得がない。
手当たり次第に刀を振っているだけだったのだ。
足さばきも丸わかりであれば、剣の振りも蚊が止まりそうなほどに遅い。
だから先読みも容易い。
俺は刀が振り下ろされる寸前に、間合いの外から一気に飛び込んで魅狐へと組み付いた。
肩に鈍い痛みが走る。
柄頭が当たっただけだ。
これほど密着すれば刀も用をなさない。
正面から抱きつくようにして彼女の体を押さえ込む。
逃れようとすさまじい力で暴れ始めるが、俺も決して離すまいと腕に力を込めた。
「緋澄、今だ!」
「はいっ!」
合図を受けた緋澄が木立に向かって駆け出す。
「なにっ……!」
と動揺の声を漏らしたのは鬼だった。
あとは彼女の剣を信じるしかない。
「じ、仁士郎……!?」
体は俺を振りほどこうと暴れるつつ、声は戸惑いと安堵がないまぜになった響きで呟かれた。
作戦を聞いていない魅狐は俺たちの動きに驚いたことだろう。
「もう大丈夫だ。こうしておまえに抱きついて動きを封じているあいだに緋澄が鬼を斬ってくれる。だからほんの少しだけ辛抱していてくれ」
続く魅狐の言葉はなかった。
俺の首にがぶりと噛みついてきたからだ。
「うっ……!」
しまった。
刀に気を取られていてこの反撃は想定していなかった。
しかも嚙むなどという生易しいものではない。
俺の首の肉を根こそぎ食いちぎろうかという、さながら猛獣の一撃だ。
痛みに卒倒しそうになる。
反射的に振りほどきたくなる。
だがここで魅狐を離したら終わりだ……。
全身から力が抜けそうになるのをこらえ、もはや彼女の体が折れてもよい、というつもりで力一杯抱きしめ続けた。
首から胸元にかけて生暖かいものが広がっていく。
噛みつかれている箇所から大量の血が流れ出ていることが見なくてもわかった。
なるべく急いでくれ、緋澄……そう長くは保たないぞ……!
「ぎゃぁっ!」
薄夕焼けの下に大きな悲鳴が響き渡った。
さらに、ばさばさと木がなぎ倒される音や、どたどたという足音が踏み鳴らさせる。
茶屋の裏手にある木立のほうに目を向けると、そこから二本角の鬼が飛び出してきた。
右腕が鮮血に染まっている。
「おのれぇ……! かくなる上は!」
鬼は一目散に俺たちのほうへと向かってきた。
緋澄に敵わないと見るや、身動きの取れない俺を始末しようと実力行使にきたか。
一歩遅れて緋澄も木立から姿を現わす。
抜き身の刀が西日を浴びて煌めいた。
「斬風空裂衝!」
緋澄が遠間から妖刀を振るう。
剣身から真空の刃がうち放たれ、鬼の背中を斬り裂いた。
「がはっ!」
しかし鬼はつんのめっただけで倒れはしなかった。
執念の塊と化したかのようになおも俺へ迫ってくる。
そのとき、首に噛み付いている魅狐の顎からふっと力が抜けた。
幾度も斬られたことで彼女を操る術が弱まったのかもしれない。
「ならば!」
思い切って魅狐から体を離し、手に握られた刀をひったくる。
読み通り大した抵抗はなかった。
「糸鬼!」
そして目前まで迫った鬼と向かい合う。
「用心棒風情が小癪な!」
「正面から挑んでくるならまだしも、陰から謀略を用いて仲睦まじい姉妹を傷付け合うよう仕向けるとは、断じて許さん!」
「ええい! 鬼の世の問題に部外者が首を突っ込むでない!」
鋭い爪を振りかぶって跳ぶ。
「ふたりの問題は俺の問題も同じ――部外者なものか!」
俺は姿勢を低く踏み込み、地を滑らせるように刀を振り上げる。
糸鬼は股下から頭上まで真っ二つになって、自身の血だまりの中に転がった。
◆
「助かった、緋澄……よくやってくれたな」
「仁士郎様、大丈夫ですか!? あっ、首が……!」
戻ってきた緋澄が俺の状態を見て顔を青くした。
たしか首というのは太い血管が通っているため傷がつくと出血が多い。
よほど深く噛まれたのか、手拭いで押さえていてもなかなか血は止まってくれなかった。
くらくらする。
着物は上半身がほぼ真っ赤になっている。
「す、すぐに手当てを!」
「ああ……たのめるか」
「……すまぬ……わらわのせいで、このような……」
と、地面にへたり込んだままの魅狐が蚊の鳴くような声を漏らす。
彼女の口元も俺の血でべっとりと汚れていた。
「まんまと敵の術中に嵌ったばかりか、自分の手でおぬしらを斬ってしまうところであった……」
「おまえのせいではない。気に病むな」
「そうです。操られていただけで姉様は何も悪くありません!」
「いや……元はと言えば、わらわの心の乱れが招いたことじゃ……謝っても謝りきれぬ……」
魅狐は震える両手で顔を覆う。
手の隙間からこぼれた涙が口元の血糊と混ざり、血涙のようになって胸元に染みを作った。




