弄殺の糸鬼 二
再び一日がかりで深い山を降りて、気の遠くなるほどの原野を歩くと、ようやく人里の近くまで戻ってこられた。
街道の両脇には西日を受けて橙色に輝く水田がどこまでも続いている。
ずっと人のいないところを歩いてきたからか、作業をしている百姓の人たちの姿を見て、無性に安心した気分になった。
日が暮れるまでには近くの町にたどり着けるだろうか。
険しい登山に加えて二日も野宿が続くとさすがに疲労の回復が鈍くなっている。
熱い風呂に浸かって布団でぐっすり眠りたい気分だった。
「ところで緋澄……またしても急に俺のことが嫌いになったのか?」
まるで他人のように距離を置いて、道の反対側を歩いている彼女へと投げかけた。
いつもなら肩や腕が触れ合うくらいにひっついてくれるものだが。
「いいえ、そんなことありません。むしろ日ごとに好きになっているくらいです」
臆面もなく言うやつだった。
……いや、俺がどんどん言えと言ったからか?
「なら、そんなに離れることはないだろう」
「これは、その、逆に……私が仁士郎様に嫌われないようにしているのです」
ためらいがちに謎の答えを返す緋澄。
「どういうことだ?」
「ですから……ここ数日は湯殿に入れていませんので、その……」
つまり体臭を気にしているというわけか。
「水浴びは毎日していたのだから別に汚れてはいないだろう」
実際、臭うようなこともない。
とはいえ気になってしまうのが女心というやつか。
「そうですけど……それでも念のためにです」
「信用がないのだな。そんなことくらいで嫌いになったりしないぞ」
「どうじゃかのう。百年の恋も冷める瞬間というのはいたるところに転がっているものじゃ」
と、先頭を歩く魅狐がグサリと呟く。
それを聞いた緋澄はさらに俺から距離を離してしまった。
余計なことを言ってくれるものだ……。
と恨めがましく魅狐の背中を見ていると、前方で糸のように細いものが一瞬キラリと光った。
しかし、目を凝らしてみても何も見えない。
道端の木から蜘蛛の糸でも伸びていたのだろうか。
あるいは西日が反射してそのように見えただけか。
魅狐が木のそばを通り過ぎるも、特に変わった反応はない。
やはり見間違えだったのだろうか。
◆
道すがら、掛け茶屋があったので休憩していくことにした。
俺は長椅子の端に座り、袴から刀を外して小脇に置く。
普段なら当然のように隣に座る緋澄だが、一瞬迷って、反対側の端に座った。
不自然に開いた長椅子の真ん中へ、魅狐がやれやれといった様子で腰を下ろす。
まぁ……これも町につくまでだ。
普段と違うというのも新鮮な感じがして良いと思っておこう。
「そういえば姉様。昔も、ちーちゃんが行方不明になってしまったことがありましたよね」
「うむ。たしか六つくらいの頃じゃったか」
「あのときは焦って近所をさんざん探し回りました」
「その挙句、押入れの中で寝ていたというひどいオチじゃった」
「ふふっ、そうでしたね」
ふたりが思い出話に花を咲かせ始めたので、俺はぼんやりと景色を眺めていた。
まばらに人の歩く街道。その向こうに水田。
茶屋には他に数人の客がいて、俺たちと同じように茶を飲んだり団子や饅頭を食べたりしている。
茶屋の裏手は深い木立になっていて、まだ夕方だというのに夜のような暗さを抱えていた。
「今でこそおしとやかな顔をしておるが、あの頃は緋澄もそれなりにお転婆じゃったな」
「えっ、そうでしたっけ」
「そうじゃとも。毎日泥だらけになって帰ってきて、よく怒られていたものじゃ」
当時のことを思い出したのか、緋澄は照れくさそうに小さくなった。
「意外だな。むしろ家の中で書物を読んでいるような大人しい子供だと思っていた」
まぁ、今も活動的といえば活動的ではあるが。
「はい……小さい頃から植物が好きだったので、観察するためにあちこちに出かけて、夢中になっているうちに着物を汚してしまうことが多々あった気がします……」
「それで畑仕事も好きなのか」
「そうかもしれません。お城の中にいるより自然に囲まれているほうが落ち着きましたから」
「そういえば寝所も庭の真ん中にあったな。周りに草花がいっぱいあって美しいところだった」
「あの庭は私が手入れをしていました」
緋澄が得意げな顔をする。
「もちろん庭師の方もいましたけど、あの一画だけは私ひとりでやらせてもらっていたんです」
庭とは言っても城内の庭だ。
ゆうに馬を走らせられそうな広さはあった記憶がある。
「それはすごいな。しかし大変ではなかったか?」
「好きなことですから苦ではなかったです。むしろ草花の成長を見るのが毎日の楽しみでした」
「なら、将来は自然の多いところに家を持ったほうがいいな。緋澄が思う存分庭いじりが出来るくらいに」
無意識にそんな言葉を口走ったことが我ながら驚きだった。
将来……。
この仇討ち旅を始めて以降、そんなことを考える余裕などまるでなかったというのに。
「将来……ですか……それは」
緋澄はほんのりと頬を染めてうつむいた。
「私は、仁士郎様のおそばにいさせていただけるのでしたら、どこでも構いませんけども……」
「わらわを挟んでイチャつくでないわ」
魅狐が、あえてズズッと音を立てて茶をすすった。
「じ、仁士郎様はどのようなお子様だったのですか?」
照れ隠しをするように緋澄が話題を変える。
「今と大して変わらず剣術ばかりしていたな」
物心ついたときにはすでに道場の片隅で稽古を眺めていたり、棒切れを振って真似事をしていた気がする。
「あとは友達と野山を駆け回って虫を捕ったり、川で釣りをしたり、悪童とケンカをしたり……まぁ、どこにでもいるような子供だった」
他愛もない話だが、緋澄は興味深そうに、うんうんと頷きながら聞いていた。
「いつかそのお友達の方々とお会いして、私の知らない仁士郎様のことを聞いてみたいです」
「ろくでもない話が出てきそうでこわいな」
無邪気に遊んでいた彼らも今はそれぞれ立派になっている。
この旅が終わったら、彼らの顔を見るため里帰りするのもいいかもしれない。
そのときは無論三人一緒にだ。
「魅狐はどのような子供だったのだ?」
「家の中で書物を読んでいるような大人しい子じゃったわ」
「なるほど、それで物知りなのか」
逆に、彼女こそ泥だらけになるまで外で遊んでいるような子供だと思っていた。
なにせ狐だからな。
……などと言うと尾でぶたれそうなので心のうちに留めておくことにした。
「わらわこそ、狐だからどうせ泥だらけになるまで外で遊んでおるような子供だとでも思っておったのじゃろう?」
バレていたが。
「黙っていてもしっかり顔に書いてあるのじゃ」
ずいぶん長文を書いたものだ。
「姉様は昔からいろいろなことを知っていて、私もたくさんのことを教えていただきました」
緋澄は素直に尊敬の眼差しを向ける。
「やはり読書というものはしておくべきなのだな」
武士道には「智」も含まれるため、俺も頑張って勉強しようとした時期があった。
しかし本を読んでいるとどうにも眠くなってしまうので今も苦手なままだ。
兵法書などはいくら読んでも眠くならないのだが。
「しかし書物だけでは世の中のことはわからぬものじゃ。それ故わらわは幻術を使って人に化け、こっそり人里に繰り出したりしていたのじゃが……」
魅狐は喋りながら、かたわらに置いた俺の刀を手に取った。
そして立ち上がり、するりと鞘から引き抜く。
妖刀・八雷神空断の青白い刃が、斜陽を受けて炎のような輝きを帯びた。
あまりに自然な動作だったので、俺と緋澄は疑問も抱かず、呆然とそれを眺めていた。
「魅狐……?」
ようやくその異常さに気付いたとき。
魅狐は刀を振り上げ――俺へ向けて振り下ろしてきた。
「なっ……!」
反射的に真横へ跳んで地面を転がる。
あわてて顔を上げると、俺が今まで座っていた長椅子が真っ二つに斬られる瞬間が見えた。
もし避けなければ、間違いなく俺も真っ二つにされていた。
冗談で済むことではない。
周りにいた客たちもその光景に気付いて悲鳴を上げる。
そして店の売り子も含めて蜘蛛の子を散らすように逃げ出し始めた。
「ね、姉様……なにを……?」
緋澄は目を丸くして立ち尽くす。
「な……なんじゃ……」
当の魅狐も、刀を手にしたまま、何が何やらわからない、とばかりに愕然とした表情を浮かべていた。
明らかに普通の状態ではない。
「どうした魅狐!」
「わ、わらわの意志ではない……体が勝手に動いているのじゃ……」
「なんだと……!」
魅狐の頭がカラクリ人形のようにぎこちなく回る。
青ざめて冷や汗の浮かんだ顔が、今度は緋澄のほうへと向けられた。
片手に握った刀が頭上高く掲げられる。
「姉様……!」
「いかん……緋澄……逃げるのじゃ……!」
悲痛な言葉とは裏腹に、刀は一切の躊躇もなく振り下ろされた。




