弄殺の糸鬼 一
辻斬り騒動のあった町を出立した俺たち三人は、どこまでも広がるぶどう畑のあぜ道を歩いていた。
昨日堪能したぶどう酒を思い出すと作業をしている百姓の方々には頭が下がる思いだ。
美しい青空には眩しい雲が浮かび、鳥たちが飛ぶ。
爽やかに吹き付ける風もどこか果実の甘い匂いを含んでいる。
しかしそれとは対照的に、俺の心中は苦いものが占めていた。
隣を歩く緋澄が朝から一度も目を合わせてくれないからである。
目が合いそうになるとサッと顔をそむけられてしまう。
そしてあいさつくらいはしてくれるものの、露骨に言葉数が少ない。
俺としてもそろそろ寂しくなってくる頃だった。
「……急に俺のことが嫌いになったのか?」
「えっ、なぜですか?」
緋澄はびっくりした様子で顔を上げ、目を丸くする。
そこでようやく目を合わせることができた。
「私が仁士郎様のことを嫌いになるはずありません」
むしろ心外とばかりに口を尖らせる。
「それならいいのだが、どうも朝から避けられている気がしてな。目も合わせてくれないし、態度もそっけない」
「それは……恥ずかしくて顔を見られないだけです……」
緋澄は再び視線を落とし、胸の前で組んだ指を落ち着かない様子で遊ばせた。
「恥ずかしい? なぜだ?」
「なぜって……あ、あのようなことをしたからです……」
あのようなこと、とは間違いなく昨夜のことだろう。
むしろおまえのほうから夜這いを仕掛けにきた感じだったが……と言うと終日口を聞いてくれなくなりそうなので黙っておく。
「冷静になってみると……私、姉様の口車に乗せられてとんでもないことしてました……」
緋澄は赤く染まったのを隠すように両手で頬を包み込んだ。
初々しくて可愛らしくもあるが、こんな調子でいられると少し困るのも事実だった。
「後悔しているのか?」
「後悔というよりは、なんといいましょうか、その、いけないことをしてしまった気分です」
「なら案ずることはない。好き合う男女であれば誰だってしていることだ」
たぶんな。
「にわかには信じがたいです……」
「なんなら今夜も添い寝してくれていいのだぞ」
「えっ、そんな、軽々しくすることでは……」
「お互いの気持ちが合えばしてもいいことだ」
たぶんな。
「も、もし、仁士郎様がお望みであるなら……そのようにいたしますけども……その、わ、私はもう仁士郎様のものですから……」
そこで恥ずかしさが限界に達したのか、緋澄は「うぅ……!」とうめき声を上げた。
そして逃げるように小走りで駆け、スタスタと前を歩く魅狐の隣に並ぶ。
「浮かれるあまりに油断をするでないぞ」
と、その魅狐が顔半分だけで俺へ振り向いて、冷静な声で告げた。
「町を出たら、いつ魎鉄が差し向けた刺客が襲ってくるかわからぬのじゃからな」
「そういえば、連中は町の中までは入り込まないのだな」
「鬼といえど、よほどの猛者でなければ何十人もの侍を相手にするのは骨が折れよう。わらわたちの命を奪いたいだけであればこのように邪魔の入らぬ場所で待ち伏せをしたほうが賢明じゃ」
「たしかに、それはそうだ」
とはいえ魍呀のような例もある。
いかなる時でも油断をしないに越したことはない。
◆
その後、丸一日歩き詰めて人里から遠ざかった俺たちは、野宿を挟んで険しい山脈の中を進んでいた。
どうやらこの山の上に龍の里と呼ばれるものがあるそうだ。
容易に人が立ち入れぬ高山には山道らしきものもない。
伸び放題、生え放題の草木をかけわけて山登りをするのは、妖化した肉体であれど大変なものだった。
俺が大変ということは、彼女たちはもっと大変な思いをしているのだろう。
崖のような急勾配に差し掛かり、緋澄の手を引いて少しずつ登っていく。
「つらくないか? 休みたくなったらすぐに言うのだぞ」
「はい。私はまだ大丈夫です」
と言いつつも額に玉の汗を浮かべている緋澄だった。
「魅狐はどうだ? 疲れたら背負ってやってもいいぞ」
「不要な気遣いじゃ。おぬしは緋澄の面倒だけ見ていればよい」
先導する魅狐が突き放すように答える。
彼女も彼女でどうにもそっけない態度が多かった。
あるいは疲労しているのを気取られないよう、強がっているだけかもしれないが。
急勾配を登り切ると、なだらかな丘のような場所に出た。
草木は少なくなり、むき出しの地面と大きな岩だらけになる。
難所を抜けたようなので、ここで少し休憩していくことにした。
手拭いで汗を拭き、竹の水筒から水を飲む。
カラカラになった喉に潤いが戻って生き返る気分だった。
◆
「雲の上にいるというのも不思議なものだな」
俺と緋澄は平らな岩に並んで腰掛け、見渡す限りの雲海を眺めていた。
抜けるような空の青と雲の白が切り取ったように上下に分かれている。
「きれいですね……」
「ああ」
「こんなにすごい景色を見ることができたのですから、がんばって登ってきた甲斐があります」
うっとりとした表情を浮かべる緋澄。
ひんやりと涼しい風が彼女の長い髪をたなびかせた。
「そうだな。俺に絵心があれば絵に描いて残しおきたいぐらいの絶景だ」
「私も同じことを思いました」
緋澄は愉快そうにクスクスと笑った。
「仁士郎様とこうして一緒に同じものを見て、同じ感想を抱いて……緋澄はそれがとても幸せです」
そしてしみじみと呟く。
けなげな奴だった。
魅狐と出会う前――ひとりで旅をしていた頃もいろんな場所へ行ったが、こうして景色を楽しんだことなどなかった。
今思えば、仇討ちのことだけを考えて、さながら抜き身の刃のように常に気を張っていたのだろう。
彼女たちと共にいることで、俺の心にもかつてのような安らぎが戻ってきたのかもしれない。
魅狐は少し離れた岩陰でゴロリと丸くなっている。
そうしているとまさしく狐のようだった。
「龍の里というのはあとどれくらいなんだ?」
「さぁのう……。わらわもおおよその場所を聞いただけで行ったこともないのじゃ」
あくびまじりに答える魅狐。
そのあくびが俺にも伝染した。
うららかな陽気と山登りの疲労が相まってついつい居眠りしてしまいそうになる。
まずいな……。
よし、ここはひとつ。
「緋澄……ちょっと袴を脱いで足を見せてくれないか?」
「はっ……? な、なにを言うのですか突然っ!」
緋澄は飛び上がるほどびっくりしていた。
「いや、どうにも眠くなってしまったので、興奮して睡魔を追い払おうと思ってな」
「足を見ると興奮するのですか……?」
真面目な口調で問われてしまう。
「大抵の男はそういうものだ」
「そういうものなのですか……?」
「駄目か?」
「駄目に決まっています。こんな明るいうちから……しかもお外ですし」
「誰も見ていないのだからいいだろう」
「おてんとう様が見ています」
そうきたか……。
「緋澄……好きだ」
「えっ、あ、ありがとうございます……私もです……」
「というわけで足を見せてくれ」
「ですから、あの……もっと普通のことであればしてあげられますけども……」
全力で頼み続ければ折れてくれそうだったが、あまり意地悪をするものではない。
「わかった。それなら太ももで俺の顔を挟んでくれ」
「それは普通のことではないです……」
「ふくらはぎで頬をひっぱたいてくれてもいいぞ」
「もう意味がわかりません……」
などと緋澄をからかっているうちに眠気も覚めてくる。
立ち上がって深呼吸をすると清らかな空気が肺を満たした。
心身ともに休まったので、そろそろ出発してもいい頃だろう。
「しかしこんなところに住む龍とはどういう奴らなんだ?」
俺は龍というのを見たことがない。
たしか、巨大な蛇のような姿で、空を飛んだり、嵐や津波を引き起こす強大な力を持っているとかどうとか……。
寓話や伝承で断片的にしか知らない存在だ。
「私もよく知りません。姉様は知っていますか?」
「うむ……自分たちがこの世で一番偉いと思い込んどるようないけ好かぬ連中なのじゃ」
寝転がったままの魅狐が吐き捨てるように答えた。
「俗世間を見下して関わりを持とうとせず、排他的で、よその種族と交流もしたがらぬ。そのくせ世界を見通したつもりでいるお高くとまった奴らじゃ。魑潮がそのように毒されてなければよいがのう」
「――ずいぶんな言い様だな、白狐よ」
そのとき、どこからか男性の声が割って入ってきた。
俺たち三人はハッとして身構える。
魅狐が上を向いたので俺もそちらに視線をやると、空の中に人影が見えた。
ひとりの中年男性が降下してきて、俺たちの前にふわりと着地する。
異人のような金色の髪に黒い着流し。
髪色以外は普通の人間に見えるが、果たして彼はどこから飛び降りたのか……。
当然ながら上には空しかないし、周囲に高台もない。
生身で飛んできたとでも言うのだろうか?
「何者だ……?」
俺は呆然としつつも刀の柄に手をかけて問う。
どちらにしろただの登山者ではあるまい。
「仁士郎、よい。龍族じゃ」
代わりに答えたのは魅狐だった。
「龍……? 人ではないか」
「こやつらは変化の術を使えるのじゃ。こうして人の姿で現れたということは、少なくとも、わらわたちと話をするつもりがあるということじゃろう」
「察しの良い狐だな」
龍族の男性が口元をゆるめる。
しかしそれは、犬が芸をしたのを見て感心するような笑みだった。
「この先は我らが里の領域。部外者がこれ以上近付くことは何用であってもまかりならん。大人しく引き返すのであれば何もせず見逃そう。その警告をしに来た」
「私たちはちーちゃんに会いに来たのです」
「ちーちゃん……?」
男性が眉根を寄せる。
すかさず魅狐が補足した。
「龍姫魑潮がここにおるじゃろう。わらわたちは、その姉の魅狐と緋澄じゃ」
「ほう……どうりで、鬼の匂いが混ざった一団だと思った」
鬼の王の血を引く異母五兄妹。
彼もその事情を知っている様子だ。
「だが残念だったな。魑潮は少し前に里を追放となったため、すでにここにはいない」
「追放……!? いったい何故じゃ?」
「部外者には教えられぬ」
「わらわたちは姉だと言っておろう。部外者ではないのじゃ」
「部外者には教えられぬ」
男性は強調するように同じ答えを繰り返した。
断固とした拒絶の意志が見て取れる。
排他的と評した魅狐の言葉もあながち間違ってはいなさそうだった。
「では、ちーちゃんは今どこにいるのですか?」
「いずこともなく……」
男性はまるで興味がないように言い捨てる。
どこへ行ったかわからないということか。
魅狐と緋澄は心配そうに顔を見合わせる。
里を追放というだけでも穏やかではないのに、その上で行方不明とは……。
「おまえたちはすでに用無しのはず。一刻も早く下山せよ」
と冷酷に言い残し、男性は巨大な龍の姿に転じて雲海の中に消えていった。
◆
「ちーちゃん、どこへ行ってしまったのでしょう……元気でいるでしょうか」
緋澄が不安げにため息を吐く。
「そう願うよりないのじゃ」
慰めようとする魅狐の口からも、やはり短くため息が漏れた。
三人、車座になって顔を突き合せている。
すぐには下山する気力も湧いてこないので、先ほど龍族の男性と会った場所のままだ。
「しかし取りつく島もない態度だったな。魑潮というやつは同族だろうに、行方不明になっても素知らぬ顔とは」
すべての龍が彼のようとは限らないが、魅狐が辛辣なことを言いたくなる気持ちも少しだけわかった気がした。
「龍族は自分たち以外の種族を蔑んでおるきらいがあるのじゃ。半分鬼の血が混ざった魑潮のことも内心快く思ってなかったのかもしれぬな……」
「それで追放なんてひどすぎます」
緋澄はぷんぷんと頬を膨らませる。
それも長くは続かず、すぐにうつむいて物憂げな表情を浮かび上がらせた。
「姉様……これからどうしましょう?」
「いないと言うのであればここにいてもしょうがないのじゃ」
「そいつがいそうな場所に心当たりはないのか?」
彼女たちはそろって首を振る。
手がかりが途絶えてしまったわけか。
「なら、当初の予定通り魎鉄の居城へ向かうとしよう」
たしか、鬼ヶ島とかいう鬼たちの総本山に居を構えていると言っていたな。
お祖父の仇討ちのためにも、彼女たちが命を狙われている状況を脱するためにも、魎鉄を斬るのが先決だ。
「もし道中で魑潮の噂を聞いたら、そのときにまた改めて探せばいい」
「はい……」
十年来会っていない妹と再会できると思いきや、まさかの行方知れず。
彼女たちの落胆は俺が思っている以上に大きいのかもしれない。
意気消沈している緋澄へにじり寄って、その肩を抱く。
「縁があれば、きっとどこかで巡り会える。望みは捨てるなよ」
「……そうですね。無事でいてくれるなら、またいつか会えますよね……?」
緋澄はもたれかかるように頭を傾けた。
「ああ。鬼の王の血を引くほどのやつなら無事でいるに決まっている。そうだろう?」
「はい……では私も、そう信じることにします」
頭をなでると、緋澄はくすぐったそうに微笑みをこぼす。
対面に座る魅狐の長くて深い吐息がやけに大きく聞こえた気がした。




