黄昏時の妖狐 後
目を覚ましたとき……一本松の枝葉の隙間から、夕焼けに染まった空がうかがえた。
どれほど寝ていたのだろうか。
なにか夢でも見ていた気分だ。
人間は死ぬときに今までの思い出が走馬灯のようによみがえってくると聞いたことがあるが、あるいはそういったものだったのかもしれない。
だがこうして目覚められたということは黄泉比良坂は越えずに済んだらしい。
体の痛みは完全になくなっていた。
四肢も動くようになっている。
……人を妖怪に変える術……。
朦朧とする意識の中で聞いた言葉を思い出し、俺は恐る恐る自分の腕と、それから胴体と足を見てみた。
紺青色の小袖にねずみ色の馬乗り袴。足袋にわらじ。
意識を失う前の自分と寸分違わない体がそこにあった。
祖父の形見の刀もちゃんとある。
勇薙仁士郎。齢十八。
大丈夫だ、自分のことも覚えている。
例の芋虫の形をした痣は消えていた。
鬼の攻撃で受けた負傷もなくなっている気がする。
果たして先ほどのこともすべて夢だったのではないか……と思ったときだった。
近くでたき火がぱちりと爆ぜた。
「そろそろ栗が焼けた頃じゃ」
腰まで達する長い銀髪。紅い着物。
あの娘がたき火のそばに座り込んでいた。
娘が袖をめくり、素手を火の中に突っ込ませる。
まるで熱がる素振りも見せず焼き栗を掴み出した。
「おぬしも食うか?」
振り向いた娘の姿を見て、俺は驚いて言葉が継げなくなった。
意識を失う前に見たときとは明らかに異なる部分があったからだ。
頭頂部にある、狐のものによく似た大きな耳。
そして尻のあたりから生え、長くてふかふかしたしっぽ。
その姿はまるで……。
「おまえ……化け狐だったのか……!」
「ふふ。わらわの真の姿を見破れるようになったということは、無事に妖化を果たしたようじゃな」
狐娘は蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。
焼き栗が目の前に置かれる。
芳ばしい匂いに自然と腹が鳴った。
「真の姿?」
「さきほどは単なる人間の娘に見えておったじゃろう? そういう幻術をかけてあるのじゃ。しかし鬼と妖に幻術は効かんのでな」
「妖……俺は、すでに妖怪と化しているということか?」
「うむ。人間のままであれば、あのまま毒で死んでいよう。生きておるということがなによりの証拠なのじゃ」
「しかし、見た目に変化はないようだが……」
念のため頭も触ってみるが、彼女のような獣の耳も当然ついていなかった。
「そのようじゃな」
狐娘は不思議そうな顔で俺の体を見回した。
「とはいえ完全妖化するまでには多少の時間がかかるものじゃ。しばらくは半人半妖、その人間の姿のままじゃろうな」
「そうか……」
無意識に安堵の息がこぼれた。
正直なところ、化け物のような姿になっていたらどうしようかと思っていたのだ。
あの日の……裏山で出くわした夜鳴き妖怪が脳裏によぎる。
あんな奇妙な姿になっていたら二度と人里に近寄れなくなっていたところだ。
今後どうなるのかはわからないが、今は、生きているのならそれでいいと考えよう。
これで五本角の鬼を捜す旅を続けられるのだから。
そこで俺はハッとして、きちんと正座に直りその狐と向かい合った。
「礼が遅れた。俺は勇薙仁士郎という。命を助けもらい、感謝する」
そして深く頭を下げた。
「この恩義に報いるため、お前の頼みも可能な限り聞くことにしよう」
意識を失う間際に聞いた言葉を忘れてはいない。
俺は「だが……」と言いながら顔を上げ、端正な白い顔をじっくりと観察した。
「人間を襲う手伝いをしろなどと言い出すのなら、話は変わってくるが……」
こいつ自身が妖怪であるなら、成る程、妙な術を使えるのにも納得だ。
だがそれだけにその頼みとやらも不穏なものに思えてくる。
恩知らずと言われようと心まで妖怪になるつもりはない。
「案ずるがよい。人間に危害を加えよとは言わぬ」
狐娘は優雅な仕草で首を横に振った。
大きな耳もふわふわと揺れる。
「わらわの名は妖姫魅狐。鬼の王と妖の妻との間に生まれし子。わらわの目的は、亡き父の跡を継ぎ、鬼の世の新たな王の座につくことじゃ」
……なにを言ったのだ?
次々あびせられた謎の言葉は右耳から左耳へと通り過ぎていった。
なにやら、とてつもないことを言っていたことだけは、わかったのだが。
「力を貸してもらうぞ、仁士郎よ。おぬしにとっても悪い話ではないのじゃ」
惚ける俺にも構わず狐娘――魅狐は話を続けた。
「互いの利害は同じ……わらわの怨敵にして、次の王に最も近い鬼が、他ならぬ魎鉄なのじゃからな」