妖異の辻斬り 前
「はぁ……」
なにやらため息の多い緋澄であった。
直枝城を後にした俺と魅狐と緋澄の三人は、大きな湖に沿った街道を歩いていた。
晴天の日差しが湖面に反射してまばゆい輝きを放っている。
幾艘かの小舟。まばらに見える釣り人。
山並みは遠く、湖の反対側は広大な水田がどこまでも続いていた。
目指すは龍の里。
魅狐と緋澄の妹である魑潮という者に会うためだ。
そこで彼女を仲間に引き入れようというのが当面の目的である。
魎鉄や魍呀と対峙したときのことを考えると、戦力は少しでも増やしておいたほうがいい。
「はぁ」
隣を歩く緋澄が何度目かのため息をついた。
長く艶やかな黒髪を後頭部でひとつに束ねている。
真一文字に切り揃えられた前髪。
白い小袖に、家紋が金刺繍された桜模様の羽織。
薄紫色の袴に刀を差した武士装束だ。
その表情はどこか切なげに見える。
さすがに俺も構わずにはいられなかった。
「どうした緋澄。祖父と別れて寂しいか?」
「それもありますけど……それとは別に、いま私はとても胸が苦しいのです」
緋澄は目を伏せ、胸の上辺りに手を添えた。
「だ、大丈夫か? 具合が悪いのか?」
「いいえ。悪いのは仁士郎様です」
「は……?」
「私、先ほどから仁士郎様のことを盗み見ておりました。それで――」
さっと顔に紅葉を散らす。
「涼やかなお目元……とか、たくましい胸板……とか、大きな手……とか、そういうところにドキドキしてしまって……それで胸が苦しくなっているのです」
とろんとして垂れ下がった目はどこか遠くを見つめているようだった。
「……熱でもあるのか?」
「はい……緋澄は仁士郎様に熱を上げております……」
駄目だこいつ。
お互いの気持ちを打ち明けたあの日以降……こんな調子で俺への好意を一切隠さなくなった緋澄である。
いや、前々から、本人は隠していたつもりでも実質だだ漏れではあったが。
無論、困るというわけではない。
大変ありがたいことだ。
顔がにやける。
しかしここまで積極的な態度を取られると、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまうのも事実だった。
俺がもっと女慣れしている色男であれば話は別なのかもしれないが。
「緋澄……そういうことを言っていて恥ずかしくないか?」
「それは、恥ずかしいに決まっています」
堂々と言っておきながらか。
「ただ言わないで留めておきますと、胸が一杯になって、ご飯が喉を通らなかったり夜眠れなくなってしまうので……我慢できずに言ってしまいたくなるのです」
厄介な体質だ。
だが、まぁ、そういう理由があるのなら仕方がない。
気持ち自体は喜ばしいものだ。
男冥利に尽きると思って、俺も羞恥心に耐えてみせよう。
「もしかしてご迷惑でしたか……?」
「いや、そんなことはない。むしろ今後は遠慮せずにどんどん言うといい。我慢するのは健康のためにもよくなさそうだからな」
「はい。そうします」
緋澄は嬉しそうに微笑んだ。
「そういう優しいところも、その、好きって思いました」
そして早速、遠慮なく言うのだった。
「仁という字は、いつくしみという意味……仁士郎様にぴったりなお名前です」
緋澄でなければ美人局を疑っているところだ、
この誉め殺しのような状況も精神修行と思えばちょうど良い。
鼻を伸ばして浮かれずに済むようになれば、その頃にはきっと鋼の不動心が身についていることだろう。
「見せつけてくれるのう」
前を歩いていた魅狐が、やれやれとばかりに苦笑いを浮かべた。
頭頂部に生えた大きな狐耳。腰まで達する長い銀色の髪。
紅い着物の尻のあたりで、白いしっぽが歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。
どうやら着物に小さく切れ込みが入れてあってそこから尾を出しているらしい。
あの夜以降、俺の告白などまるでなかったかのように振る舞っている魅狐であった。
聞かなかったことにする……と本人が言った通りにしているのだろうか。
ふたりの女と恋仲になりたいなどと公言する不届き者には愛想を尽かしてもおかしくない。
容認してくれている緋澄が異常なだけだ。
しかし……酔った勢いだとしても大変な告白をしてしまったものだった……。
何が無欲なものか。
欲深いにもほどがある。
とはいえ酒は人の本性を写し出す鏡。
ひそかに思っていたのは事実であるし、打ち明けてしまったものはしょうがない。
自分の心を素直に受け入れて突き進むまでだ。
いつしか街道には人通りが多くなっている。
次の町まであとひと息といったところだった。
◆
宿を取って休んでいたときに。
「聞くところよると、この辺りはぶどう酒が名産らしいのじゃ」
「ぶどうのお酒ですか? 私呑んだことありません……仁士郎様は呑んだことありますか?」
「いや、そんな酒があるということを今知ったくらいだ」
「わらわも以前一度呑んだだけじゃが、ほのかに甘酸っぱくて良い香りがして、大変美味な酒であったのじゃ」
「わぁ……それは是非とも呑んでみたいです」
という話の流れになり、俺たちは夜の町へと繰り出すことにした。
ぶどう酒と書かれた提灯を頼りに呑み屋へ入る。
薄暗くて店内はあまり繁盛していないようだったが、逆に静かで良い。
小上がり席で俺と緋澄が並んで座り、魅狐がその対面に座る。
やがて注文したぶどう酒が机に運ばれてきた。
細長い瓶を傾けると、赤紫色をした半透明の液体が湯呑みの中に満たされる。
果実を煮詰めたような芳醇な香りが辺りにただよった。
一口含む。
甘みを伴った酸味、そしてほんのりと奥深く渋みが口の中に広がる。
呑み下すと、薫り高い芳香が鼻を通り抜けていった。
「ああ……うまいな」
普通の酒とはまったく違うが、これはこれで乙なものだった。
「はい……とても美味しいです」
「うむ、この味じゃ」
と、魅狐と緋澄もお気に入りのようで、ぐいぐいと呑み進めていく。
なかなかに酒好きな姉妹だった。
古来より鬼は大酒呑みと言われている。
大量の酒を用意して酔わせたところを討ち取ったという逸話が残されているくらいだ。
鬼の血が混ざった彼女たちにもそんな部分が遺伝されているのかもしれない。
店主の勧めで鰤の照り焼きを肴にしてみると、これが絶妙な組み合わせだった。
◆
「姉様は、仁士郎様に好きと言ってもらえて嬉しくなかったのですか?」
ぶどう酒の瓶が二本目に突入し、それも半分ほど減った頃。
緋澄が唐突にそんなことを言い出した。
不意を突かれた魅狐が口に含んでいた酒を噴き出す。
「おふたりはとても仲が良いです。なんだか私の知らないところで通じ合っているような……なので、てっきりそうなのだと思っていましたけど」
緋澄はろれつが怪しくなってきた口で続けた。
顔は真っ赤に上気し、目がすわっている。
すっかり酔いが回っているようだった。
「おぬしの気のせいじゃ」
魅狐が吐き捨てるように答える。
「姉様が仁士郎様のことを好きでも私は構いませんのに……父様には妻が五人いましたから、仁士郎様にだってふたりくらいならいてもいいと思います」
「鬼族の王と素浪人を同列に扱うでないわ」
返す言葉もない。
「同じくらい素敵な男の人ですから同じようなものです」
緋澄が俺の肩へうなだれかかってくる。
「はぁ……いつになったら私をお嫁にしてくださるのでしょう」
「ぐほっ!」
今度は俺が噴き出す番だった。
酒の勢いが加わって積極性に歯止めがきかなくなっているのではないか……。
「気の早いやつなのじゃ」
「い、いや、無論、俺も、いずれはという気持ちはあるが、旅をしている最中では、なかなか……」
「仁士郎様……いい匂いがします」
脈絡なく話を変える緋澄だった。
こうなったら俺の声がちゃんと耳に届いているのかも怪しい。
「そ、そうか……? この酒の匂いではないか?」
今まで生きていて一度も言われたことのない言葉だった。
緋澄は俺の首元に顔をうずめる。
「……少し汗くさくて、男らしい感じで、嗅いでいると体が熱くなってきます……なんだかいけない気分になってしまう匂いです……」
駄目だこいつ。
「しらふに戻ったときにこんなことを言っておったと教えたらのたうち回ること確定じゃな」
さらりと汗くさいと暴露された俺ものたうち回りたい気分だった。
「あ……私、ちょっと……」
と、緋澄が呟いて、千鳥足で席を立った。
何の用かは乙女に聞くまい。
「生娘の初恋は加減を知らぬのう……。おぬしも大変じゃな仁士郎よ」
魅狐は冷やかすように笑って干し魚をかじる。
「おまえにもそういう時期があったのか?」
あまり想像できない姿だ。
「さて、どうじゃったか」
と、はぐらかされて結局教えてはもらえなかった。
◆
緋澄はなかなか戻ってこなかった。
そろそろ二本目も底を尽きそうになっている。
もしかしたら気を使ってふたりきりにしてくれているのかもしれないな。
「魅狐……俺は、おまえには言葉にできないほどの感謝をしている」
「おぬし、酒が入ると女を口説く癖があるようじゃな」
「茶化さないで聞いてくれ」
「むぅ……」
「おまえがいてくれなかったら、俺はあの山の中で野垂れ死んでいた。こうして生きていられるのも、鬼と戦える力を得られたのも、すべておまえのおかげだ」
魅狐の口から自虐的な笑いが一息だけ漏れた。
「残念じゃが、わらわはおぬしを利用しようと考えていただけじゃ」
「利用?」
「あのときのわらわは刺客に仲間をすべて殺されてひとりきりであった」
視線は手元に注がれていて、俺のほうを見ようとはしない。
「早急に新たな手駒が欲しかったところ、たまたま出くわしたおぬしが、魎鉄に恨みを抱いていると知り……だから助けたまでじゃ」
魅狐は湯呑みに残ったぶどう酒を一気にあおる。
胸のうちに溜まったなにかまで呑み下すように。
「肌を許したのも、機嫌を損ねて逃げられたら困ると思ったゆえ……それ以上の意味などない。わらわはそういうズル賢い女じゃ」
俺は、机の上に置かれた彼女の手に、自分の手を重ね合わせた。
「あのときはそうだったのかもしれない。だが、今も同じ気持ちでいるのか? ……違うだろう」
もしそうであるなら、こんなことを打ち明けたりはしないはずだ。
適当にご機嫌取りをしていればいいのだから。
「それにおまえがどう思っていようが構わない。おまえに救われたこの命はおまえのために使うと決めている。俺が仇討ちを果たしたあともだ」
「ならば望み通り、下男として死ぬまでコキ使ってやるとするかのう」
魅狐はするりと手を引き抜き、席を立った。
「わらわはもう戻るのじゃ。あとはふたりで仲良く呑んでいるとよい」
「魅狐……」
「以前にも言うたじゃろう、仁士郎」
彼女の声音に真剣な響きが込められる。
「二兎を追う者は一兎をも得ずじゃ。欲を出した挙句に緋澄を悲しませるようなことになったら、わらわはおぬしを生涯許さぬぞ」
「重々承知している。だが俺の気持ちは変わっていない。それは覚えていてほしい」
「ならば、ひとつ試しておこうかのう」
魅狐は意地の悪そうな笑みを口元に浮かべた。
「わらわと緋澄が溺れていて、おぬしの乗る舟にはあとひとりしか乗せられぬ。そのとき、おぬしはどちらを助けるのじゃ?」
「決まっている。俺が舟から降りて、おまえたちふたりを乗せよう。泳ぐのは得意だからな」
「実際にやりかねぬのがおぬしの恐ろしいところじゃな」
ふっと鼻を鳴らし、魅狐は呑み屋を出て行った。




