星空の下 前
骸骨事件も無事に解決し、そろそろ旅に戻ろうかという、とある昼下がり。
俺が使わせてもらっている城内の客間へ魅狐がやってきた。
「仁士郎よ。芝居見物は好きか?」
藪から棒に。
「芝居か……昔はお祖父に連れられて観に行くこともあったな。好きだった」
「ではこれから緋澄とふたりで観てくるといいのじゃ」
「なぜそうなる」
「大人しく従えばよい」
断固とした口調で言う魅狐だった。
「この一件でだいぶあやつの機嫌を損ねてしまったじゃろう。それを取り返させてやろうと言うのじゃ」
「成る程。そういうことか」
緋澄に関することとなればいろいろと気を回すやつだ。
たしかに緋澄には気苦労をかけてしまったからな。
旅路に出ればゆっくり遊ぶということも出来ない。
最後に羽を伸ばすのもいいだろう。
「構わないが、おまえは行かないのか?」
「そのように無粋な真似するはずなかろう」
……それもそうか。
「ちなみに緋澄はもう誘い出してあるのじゃ。今頃は芝居小屋の前で待っとるじゃろうな」
「それを早く言え」
最初から俺に決定権はなかったわけか。
あまり待たせたらご機嫌取りどころではなくなってしまう。
慌てて支度をすることにした。
「あやつを落胆させぬよう、ちゃんと話を合わせておくのじゃぞ」
「話を合わせる……?」
「いいから急いで行くのじゃ」
◆
城下町の喧騒をかき分けて、魅狐に指定された芝居小屋の前まで行く。
そこには、行き交う人々――特に男性――が思わず振り返って見惚れてしまうほど美しい娘が立っていた。
凛とした静かな立ち姿。
その一方で、澄んだ緋色の瞳はそわそわと落ち着かない様子で周囲を泳いでいる。
内面から滲み出る気品からして、どこかの武家令嬢かお忍びの姫様といったところだろうか。
と思ったら緋澄だった。
「あっ、仁士郎様」
近寄る俺を見つけたことで、その表情がパッと彩りを帯びる。
「すまない緋澄、待たせたな」
「いえ、お気になさらず。よく考えたら一緒にお城を出ればよかったのですけど、なんだか気が急いて先に来てしまいました」
にへへ、と照れ笑う緋澄は、普段の袴姿ではなく牡丹柄の振袖を着ていた。
長い髪も下ろして背中に垂らしている。
無論、刀も持っていない。
こういう女らしい装いをするとますます可憐で華やかだ。
能ある鷹は爪を隠すと言うが、今の彼女はいわば爪を剥き出しにした状態。
彼女が本気を出せば俺のように単純な男はたやすく捕食されてしまうだろう。
「いつもと格好が違うので一瞬わからなかったぞ」
「えっと、姉様が、今日はこういう服装のほうが良いと持ってきてくださいまして……」
緋澄ははにかんで自分の着物を見下ろす。
そして遠慮がちな視線を俺へと向けた。
「あまり着ないのですけど、その……へ、変ではないですか?」
とんでもない。むしろ似合っている。とても可愛らしい。魅力的だ。
と様々な感想が浮かんでくるが、何故か俺のほうまで照れてしまい、うまく言葉に出すことができなかった。
「ああ……うむ、別に、変ではないが……」
「……そうですか」
緋澄はしょんぼりした様子で眉根を寄せた。
まずい、返答を間違えた……!
背中に嫌な汗が滲んでくる。
「と、とにかく芝居小屋の中に入ろう。そろそろ演劇が始まる頃ではないか?」
はぐらかして歩き出そうとした俺の袖を、彼女が思わずといった具合につかんだ。
「あの」
「ど、どうした?」
「今日は……私……誘ってもらえて、嬉しいです」
顔を俯かせ、しぼり出すような声で言った。
しかしだ。
誘ったも何も、俺も魅狐に言われるままここに来ただけだが……。
と、出がけに言われた言葉を思い出す。
話を合わせろとはこういうことか。
余計な気まで遣うやつだ。
だが、これ以上、緋澄をしょんぼりさせるわけにもいかない。
可能な限りは合わせることにしよう。
「ああ……それはよかった。誘い甲斐があったというものだ。いや、どうしても見たい劇があったからな」
「仁士郎様はこういうのがお好きなのですか?」
「うむ。前々から興味があった」
「意外に可愛らしいところがあるのですね」
緋澄はおかしそうに笑みをこぼした。
可愛らしいところ……?
妙なものを感じて、立て看板に書かれた演目を見る。
『くまたろう』
完全に子供向けの劇だった!
よくよく見回してみれば、周りにいるのは小さな子供を連れた家族ばかりだ。
何を考えているんだ魅狐め……。
大の男が女を誘って見に行くようなものではないぞ。
気を遣えるのか遣えないのかわからんやつだな。
「どうかしましたか?」
うろたえる俺の様子を怪しんだのか、緋澄がきょとんとした顔を向けてくる。
「いや、どうもしないぞ。今まで秘密にしていたことだが、俺は無類の熊好きなんだ」
「別に秘密にしておかなくてもいいと思いますけど……」
思い返せば、裏山にいた夜鳴き妖怪を倒せたのは熊が手負いにしてくれていたからだ。
そういう意味では彼らに感謝の念がある。
好きか嫌いかで言えば好きと言っても差し支えないだろう。
「……入ろう」
それ以上話すとぼろが出そうだったので、強引に打ち切って芝居小屋へと歩き出す。
「はい」
緋澄は弾んだ声を出して俺のあとに続いた。
◆
観客席は案の定、小さな子供とその親たちであふれかえっていた。
子世代でも親世代でもないのは俺たちだけだ。
『くまたろう』はお馴染みの童話である。
熊の熊太郎が、猫、馬、カラスをお供にして悪行三昧をする龍を退治しに行くという物語だ。
俺も小さな頃に書物で読んだことがあるし、演劇を観たこともある。
この劇団が演じる内容も概ね原作通りだった。
動物の仮面を被った役者たちが舞台狭しと迫力のある演技を見せている。
俺にとっては周知のものだが、子供たちには新鮮だったようだ。
物語の佳境となる龍との決戦の場面では、くまたろうがんばれー、という大きな声援がそこかしこから投げかけられていた。
「左側が隙だらけです! 今なら仕留められますっ!」
それに混じって緋澄も全力で応援していた。
◆
劇が終わり、芝居小屋からぞろぞろと出てくる客の中に俺たちもいた。
「なんだか懐かしかったです」
こんな演目で大丈夫かと危ぶんだが、意外にも緋澄は楽しげに表情を綻ばせていた。
「小さい頃に書物で読んだことありましたから」
「俺もだ」
懐かしさという意味ではそれなりに楽しめた。
劇に熱中する子供たちも微笑ましかったし、心が洗われた思いだ。
「たまにはこういうのも楽しいものだろう?」
「たまにじゃなくてもです」
緋澄はゆるやかに首を横に振ってみせた。
「仁士郎様と一緒なら、きっとなんでも楽しいと思います」
◆
そのあと、俺と緋澄は手近な団子屋へ寄っていくことにした。
団子と茶を頂きながら他愛のない雑談に花を咲かす。
たったそれだけのことが、今日は驚くほど濃密な時間に感じられた。
しばらくして、
「あの、私、ちょっと……」
と、緋澄が小声で告げて席を離れた。
何の用かは乙女に聞くまい。
すでに机の上の皿も湯呑みも空だった。
彼女が戻ってきたら御暇することにしよう。
などと考えながら待っていると、視界の隅に、見慣れた狐耳と腰まで達する長い銀髪がひょっこり現れた。
「ふふっ、どうじゃ、緋澄との逢い引きは」
紅い着物を着た魅狐が、さも自然な感じで俺の隣へと腰を下ろす。
なまめかしい微笑へ俺は冷たい目を送り返した。
「……ずっと覗き見していたのか?」
「まぁそれはどうでもよいじゃろ」
よくはない。
が……そもそもこれは彼女がお膳立てしてくれたものだ。
あまり邪険にも扱えない。
「それで、どうなのじゃ? 楽しいか?」
「ああ、おかげさまでな。もっと普通の演劇ならひとつも文句はなかったが」
そのせいで俺は無類の熊好きということになってしまった。
魅狐は不思議そうに小首をかしげる。
「なんじゃ、気に入らんかったか? 緋澄はあの物語が好きで、よく読み聞かせてやっていたんじゃがなぁ」
くまたろうを選んだ一応の理由はあったわけか。
「それはいつ頃の話だ?」
「六つか七つくらいじゃったな」
だろうな。
「さて。わらわも冷やかしにきたわけではないのじゃ」
魅狐が真剣な声を出して、俺の目をじっと見つめた。
思わず息を呑む。
「緋澄の気持ちは言うまでもなかろうが、肝心のおぬしのほうはどう思っとるのじゃ?」
「それは」
ここまできた以上誤魔化すつもりはない。
魅狐に対しても……そして緋澄に対してもだ。
「俺も同じ気持ちでいる」
「ならば応えてやるといいのじゃ。緋澄も喜ぶことじゃろう」
と、自分が一番嬉しそうに目を細める魅狐だった。
「まっ……どこぞのロクでもない男に惚れるよりはおぬしが相手で一安心といったところじゃな」
「だが、魅狐。おまえはそれでいいのか?」
「なにがじゃ?」
「三人で旅をしているんだ。俺と緋澄が親密になったらおまえが寂しい思いをしてしまうかもしれないぞ」
実際、この姉妹の仲が良すぎて俺が孤立する場面が多々あった。
俺の場合はさほど気にならないが、彼女にとっては大きな問題ではなかろうか。
「下手な気を回すでないわ」
しかし魅狐は一笑に付した。
「あやつが幸せそうにしていれば、わらわはそれで満足なのじゃ。寂しい思いなどするはずなかろう」
そして静かに席を立つ。
「いざとなったら助けに入ってやろうと思っておったが、その必要はなさそうじゃ。わらわはこれにて帰る。あとはうまくやるのじゃぞ、仁士郎よ」
念を押すように言って、白くてふかふかのしっぽを揺らしながら団子屋を出て行った。
◆
戻ってきた緋澄と共に店を出ると、すでに西の空が橙色へと変わっていた。
黄昏時……。
一両日前までは、この時間になると骸骨の軍勢が現れて攻撃を仕掛けていた。
しかしもうその心配はない。
どこかでカラスが鳴いているだけの、のどかな夕刻の町並みだった。
「仁士郎様、これからどうします?」
お伺いを立てるように緋澄が見上げてくる。
「もう日が沈んでしまいますし、お城に戻りますか? それとも……」
この時間が終わってしまうのを惜しんでいるように見えるのは俺の勘違いではないはずだ。
そっと彼女の手を握る。
「わっ……」
「俺はもう少し一緒にいたいと思っている」
「……私もです」
蚊の鳴くような声で頷いた顔は、夕焼けに負けないほど真っ赤に染まっていた。




