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夜鳴きの妖獣 後


 やがて上り坂の頂点に差し掛かる。

 満月が雲に隠れ、周囲が闇に包まれた。

 冷たい夜風が黒い木々を揺らす。


 いつしか熊の鳴き声は聞こえなくなっていた。

 妖怪の声も聞こえない。

 鳥の声も獣の声も虫の声もない。


 異様な静寂の中にぽつりと立ち尽くす。

 不意に肌が粟立つような感覚を覚えたのは、果たして俺が恐れをなしているからなのだろうか。


 そして再び雲間から月が顔を出す。

 月明かりに照らされた道の上で――奇怪な四足獣がこちらを見下ろしていた。


「……!」


 いや、それを獣と呼んでいいものか。

 上半身は虎で下半身は猿。

 尻から尾のように大蛇が生えている。

 熊より一回りも巨大な体躯。


 牙を覗かせた大きな口から、ヒョーヒョーという気味の悪い鳴き声が威嚇のように発せられた。


「こいつが……!」

 間違いなく夜鳴き妖怪……!


 心臓が早鐘を打って呼吸が早くなる。

 まずい……冷静になれ……!


 よく見ると手負いのようだ。

 全身に引っ掻き傷があり、生々しい鮮血が滴っている。

 状況からして熊の群れと争い合った直後と見るべきだろう。

 この鳴き声に夜な夜な悩まされていたのは人間だけではなかったということなのかもしれない。


 提灯をそっと地面に置く。

 辺りの闇が濃くなるも、満月の明かりで妖怪の姿はかろうじて見えていた。


「おまえも悪気があって鳴いているわけではないのだろうが、それで困っている人たちがいるのでな」


 俺は刀を抜いて構える。

 妖怪はずっと俺を見つめていた。


「言葉が通じない以上はこうする他ない」


 相手は熊の群れをも蹴散らすほどの妖怪……。

 だが俺も畑に下りてきた熊を撃退したことはある。

 臆すな。


 どんな相手であれ挑むのを恐れるのは男のすることではない。

 お祖父の言葉を思い出し、気を静めて精神を集中させた。

 

 強い風が吹いて木の葉を揺らす。

 その風に乗るようにして妖怪が飛びかかってきた。


 速い!

 瞬きをしたときにはすでに目の前にまで迫っていた。


 妖怪が右前足を振りかぶる。

 太く長い爪は血まみれだった。

 それは恐らく熊たちの返り血。

 この一撃を受けるわけにはいかない。

 反射的に背後に跳ぶ。

 空気を裂いた爪が鼻先を擦過した。


 俺は着地と同時に踏み込み、刀を振り下ろす。

 奴の肩口を斬ったが、手応えが鈍い。


 続けざまに返す刀で胴を狙う。

 振り切れない。

 巻藁まきわらなどとはまったく違う、まるで大木を打ったような感触だった。


 なんという頑強な体なのだ……!


 妖怪が前足を軸にして尻を振った。

 尾の大蛇が鞭のようにしなって襲いかかってくる。

 刀を振って斬り払うも、間髪を入れずに、今度は鋭利な爪でなぎ払ってきた。


 手負いとは思えないほど鋭敏な動きだ。

 俺は刀を盾にしつつ、さらに後ろに跳んで逃がれた。


 予想以上の強さだ。

 お祖父じいの剣速と同等か、それ以上の速さ。

 刃が入りにくい、硬いゴムのような皮膚。

 そして先が触れただけで致命傷を受けてしまうだろう腕力。

 お祖父は日頃からこのようなものと戦っていたのか……!


 冷静になろうと努めれば努めるほど力の差に寒気がする。

 だが……倒さねばなるまい。


 このまま遠間に逃げても打つ手はない。

 勝つためには、あの爪を恐れず、懐に飛び込むしかないだろう。

 そこで全力の一撃を叩き込む。


 出来るのか?

 ……出来る。

 必要なのは勇気だけだ。


「名も知らぬ妖怪よ……死出の土産に覚えておけ!」

 ならば大丈夫、と自分に言い聞かせる。


「おまえを倒す者の名は、勇薙いさなぎ仁士郎じんしろうだ!」

 勇なら産まれたときに頂いているだから。


「はぁぁっ!」

 俺は気勢の声を発する。

 すると妖怪も、ヒョー、と威嚇の声を放った。

 不思議なことに、まるで人間の剣士と立ち合ったときのように、その妖怪と呼吸が合ったと感じられた。


 互いに地を蹴って突進。

 肉薄。

 妖怪の爪が振り上げられる。

 俺は防衛本能に逆らってさらに加速。

 刀を寝かせて顔の横まで引く。


「突きィィッ!」

 そして勢いよく、大きく開いた妖怪の口に刀をねじ込んだ。


 牙の隙間から血が噴き出す。

 硬い肉に阻まれるも、渾身の力を入れて刀を押し込む。


「おおおっ!」


 なにかを突き破った感触。

 妖怪の後頭部から、血に濡れた切っ先が飛び出した。


 妖怪の返り血を大量に浴びながら、虎とも猿とも言えないような奇怪な顔と至近距離で睨み合う。


 どれほどそうしていただろうか。

 やがて妖怪の目から光が失われていくのがわかった。

 徐々に体の力も抜けて、ぐったりと俺の上にのしかかってくる。


 夜鳴きの妖怪はそれきり動かなくなった。


 ◆


 緊張の糸が切れたせいか俺もしばらく動けなくなっていた。


 どうにかして妖怪の下から這い出る。

 改めて見ても奇妙な生き物だった。

 まさしく妖怪としか言いようがない。


 もし手負いでなければ死んでいたのは俺のほうだったろう。

 恐ろしい相手だった。

 俺はまだまだ未熟だ。それを思い知らされた。


 やはりお祖父じいの言う通りだった。

 今後は生意気なことは言わず一層修行に励まなくては……。


 だが、俺は勝ったのだ。

 そんな実感がじわじわと湧き上がってくる。

 これで周辺の人たちも安心して寝られることだろう。

 それがなにより嬉しかった。


 妖怪の死体から刀を引き抜き、下山しようと踵を返したとき。


「ほう……人間でありながらそやつを倒してみせるとは」

 不意に若い女の声が聞こえてきた。


「なかなか腕が立つものじゃな。わらわが自分で始末をつけようと思っていたのじゃが、手間が省けた。礼を言うぞ侍よ」


 驚いて振り向くと、月明かりの注ぐ坂道の上に、鮮やかな赤い着物を着た娘が立っていた。


 いつからそこにいたのか……。


 腰まで達する長い髪は刃のような銀色。

 ほっそりとした切れ長の目は満月のような金色。

 肌は雪のように白い。

 つい息を呑んで見惚れてしまうほどの美貌だった。


 だがそれは、どこか人間離れした魔性の美しさに思えた。

 凄艶せいえんとでも言うべきか。

 普通の人間とはなにかが違う。

 はっきりとした言葉には出来ないが、何故だかそう感じた。


「どうにも言うことを聞かぬ奴でのう」

 娘さんは独言しながら妖怪の死体に目を向ける。

「逃げ出した挙句周囲に迷惑ばかりかけるので、わらわが責任を取らねばと思っていたところだったのじゃ」


 御旗本のような言葉遣いだが、そんな高貴な娘さんが何故こんな夜更けに、こんな山奥に……?

 しかもこの妖怪を知っている風な口ぶり。

 まるでわけがわからない。


「嗚呼、魅狐みこ様!」


 すると、また別の声が聞こえてきた。

 今度は老婆らしき声だ。なにやら心配するような口調。

 夜闇に隠れてその姿は見えなかった。


「このようなところにおられましたか……!」

「遠路はるばる追いかけてくるとは、ばあやも難儀じゃな」

「もう慣れっこでございます。さぁ魅狐みこ様、一緒に里へお戻りくだされ」

「うむ……すでに用は済んだ。今日のところは素直に従っておくのじゃ」


 娘さんが長い銀髪を翻して闇の中に消えていく。

 鮮やかな赤い着物もすぐに見えなくなった。


 再び山中が静けさに包まれる。

 いったいなんだったのだ?

 状況が飲み込めぬ俺は終始言葉を失ったままだった。

 こういうのを狐につままれた気分と言うのかもしれない。


 ◆


 山を下りて太吉さんの家に戻った頃にはすでに夜も白み始めていた。


「仁士郎さんっ! よかった、無事でしたか……!」

 寝不足のはずなのに、太吉さんは起きて俺を待ってくれていた。


「妖怪は退治してきました。これでもう大丈夫なはずです」

「ほんとうですか!? ありがとうございます……! これで村の皆も救われます」


 太吉さんは隈の浮かんだ目をじんわりと潤ませた。


「なにかお礼を……うちには野菜しかありませんので、どうか好きなだけ持っていってください」

「いや、俺は単なる見習いなので、そのようなものは受け取れません。むしろ太吉さんたちこそたくさん食べて精をつけてください」


「しかし、そういうわけにも……」

「良い経験をさせてもらいましたから、それで充分です。それでは」


 と、こちらから話を打ち切って踵を返す。


「仁士郎さんっ!」

 振り返ると、朝焼けの下、太吉さんが深くお辞儀をしてくれていた。


 ◆


 心地良い充足感と疲労感に包まれながら帰路につく。


 お祖父じいにこのことを話したらどんな顔をするだろう。

 早まった真似をと怒られるか、あるいはよくやったと褒めてくれるか……。

 うむ、怒られそうだ。


 なんにせよお祖父が帰ってくるのが楽しみだ。


 ◆


 それから十日ほど経ったある日。

 道場の玄関口に、人がひとり倒れているのを発見した。


伍介ごすけ殿……!?」


 それはあの日お祖父じいと共に出かけていった浪人の伍介殿だった。


「どうされました!」


 彼は酷い傷を負っていた。

 着物の下の包帯は真っ赤に染まっている。


 呼吸は虫の息。

 顔は蒼白で、目はどこを見ているのかわからないほどうつろ。

 素人目に見ても死の淵をさまよっているのは明白だ。


「す、すぐに医者を呼んできます! 待っていてください!」

「……これを……仁士郎に……」


 伍介殿が弱々しい手で俺の着物をつかむ。

 そして、胸元に抱えていた刀を差し出した。


「これは、お祖父の刀……!」


 妖怪退治をするときには必ず携えていた愛刀だった。

 あの日、出かけていったときも、当然これを腰元に納めていた。


 この刀を……俺に……?


 その言葉が意味することを俺は直感的に悟ってしまっていた。

 だが認めたくない。

 早とちりであってほしい。


「お祖父は……一緒ではないのですか……?」

 嫌な想像を否定してもらいたくて、わかりきった問いを口にしていた。

 返されたのはわかりきった答えだった。


「……殺された……」


 嘘だ。

 そんなはずがない。

 お祖父が死んだ……?

 殺された……?


「……五本角の……鬼に……」

 鬼に……?


 ◆


 伍介殿はすぐ町医者のところに運び込まれたが、傷の具合が酷く、その日のうちに亡くなってしまった。

 文字通り命をかけて俺のところまで来てくれたのだろう。

 お祖父の死を告げるために。

 そしてこの刀を受け渡すために。


 それがお祖父の頼みだったのかはわからない。

 伍介殿があれ以上の言葉を話せなかったからだ。


 だが俺は、これをお祖父の遺志だと受け取った。

 俺に託したのだ。

 その鬼を討てと。

 果たせなかった自分の代わりにこの刀を振るえと。


 ならば俺のやるべきことはひとつしかない。

 その五本角の鬼を斬って、お祖父の仇を討つ!


 遺志を継ぐ。

 無念を晴らす。

 やり遂げられなかった責務を果たす。

 他人に委ねるわけにはいかない。

 俺にしかできないことだ。


 とはいえだ……。

 相手はお祖父が負けてしまうような鬼。

 そんなやつに俺が勝てるのか……?


 いや――どんな相手であれ、挑むのを恐れるのは男のすることではない。


 たとえ返り討ちに遭って殺されたとしてもだ。

 このまま何もせずのうのうとしていたら、俺は一生胸を張って歩けなくなる。

 それは死ぬよりもつらいことだ


 下を向いて生きていくより上を向いて死ぬ。

 武士の生き様とはそういうものだ。

 俺もそれに殉ずる。

 これは誇りの問題なのだから。


 ◆


「仁士郎さん」


 看板を下ろした道場の門を眺めていたところに、にこやかに声をかけてきたのは太吉さんだった。


「先日はどうもお世話になりました」

「太吉さん、ずいぶん顔色が良くなりましたね」

「ええ、あれ以来妖怪の夜鳴きも無いですし、おかげさまでこの通り元気になりまして。それで今日は改めてそのお礼に参りました」


 なにやら野菜が一杯に詰まった大きなかごを背負っている。

 ……つくづく運の悪い人だった。


「申し訳ない。俺はこれから旅に出ますので……」

「旅? どちらへ?」

「流浪の旅になるかと思います。いつ頃戻れるのかもわかりません」


 例の五本角の鬼に関する手がかりはまったくない。

 どこにいるのか、どんな奴なのかさえわからない。

 その情報を集めながらの旅になるだろう。

 どれほどかかるか見当もつかないが、奴を斬るまでここに戻ってくるつもりはなかった。


「そうですか……」

「せっかく来てくださったのに、本当に申し訳ない」


「いえ、お気になさらず。そうだ、お戻りになられたらぜひ報せてください。そのときこそ盛大にお礼をさせてもらいますから」

「わかりました。楽しみにしています」


 とぼとぼと引き返す太吉さんを見ていると悪いことをした気になってくるが、こればかりは中止もできない。


 再び、閉じられた道場の門を見上げる。

 そして腰に差した刀を指先で触れてみた。


 お祖父の形見の刀。

 この刀で五本角の鬼を斬る。

 それが、俺がお祖父にできる唯一の手向けだ。


「仁士郎、行って参ります」

 

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