武士の理 後
茶店をあとにした俺たちは、川向こうに行くために大きな石橋を渡っていた。
穏やかだった流れはいくつかの支流を交えてその水量を増しつつある。
いつしか人の往来はぱったりなくなり、辺りには鳥の声と流水の音しかなかった。
「さっきはびっくりしました」
石橋の上を歩きながら、緋澄が胸に手を添えて言う。
「出会ってすぐの人にあんなことを言われるとは思っていなかったので……」
「出会い頭に求婚してきおったり、男のくせに女のようなやつじゃったり……半人半鬼というのは妙な手合いばっかりじゃな」
しみじみと言う魅狐。
その視線が悪戯っぽい色を帯びて緋澄へ向けられた。
「こちらにも女のくせに男のようなナリをしたやつがおるしのう」
「そういえば緋澄はどうして武士の格好をしているんだ?」
俺も彼女の羽織袴に刀を差した姿を改めて眺める。
俺が知っているのは、畑仕事をする野間着姿か、この武士姿だけだ。
「……おかしいですか?」
緋澄の表情が少しだけ不安げに曇った。
「おかしくはないが、めずらしくはある。そういう格好の女は見たことがなかったからな」
お祖父の剣術道場にいた門下生も男ばかりだった。
てっきり女というのは剣に興味がないものと思っていたのだが。
「私は、強くなりたかったので」
緋澄は遠くに目を向けて答える。
それは腕っぷしという意味だけではなく、精神的な意味もあるのだろうと思った。
「武士の方々は確固たるや信念や志というものを持っています。私もそういう心意気を見習いたいと思って……まず形から真似しようと思ったんです」
「真面目なやつじゃな」
魅狐が微笑ましく呟く。
「しかし、たまには普通に女の格好をするのも良いと思うがのう」
「そうですか? ……仁士郎様もそう思いますか?」
緋色の瞳が遠慮がちに俺へ向く。
「そうだな。元が良いから他の服装も似合うと思うぞ」
「あの、仁士郎様はどんな服装が見たいですか? あ、あくまで参考までにですが……」
「それは……うむ」
足の見える服装。
と素直に言うと魅狐に睨まれそうなので、他のを考えることにする。
「足の見える服装じゃろ」
バレていたが。
◆
「むっ、あれは……」
魅狐がなにかに気付いたように前方へ視線を向ける。
橋の向こうからひとりの浪人が歩いてきていた。
女物のような派手な柄の着物を着た線の細い優男。
間違いなく、さっき会った青次郎だった。
「やーん、仁様ぁ!」
なにやら黄色い声を上げ、手を振りながら小走りでやってくる。
猛烈に嫌な予感が湧き出す俺だった。
「もてる男は大変じゃなあ」
魅狐がからかうように言って肘で小突いてくる。
出来ることなら女にもてて大変な目に遭いたい。
「またお会いできたわねぇ。奇遇だわぁ!」
明らかに待ち伏せしをしていた気がするが。
どうやら彼ひとりのようだ。
兄である赤ノ介の姿は見えない。
「青次郎殿」
「鈴蘭よ!」
「……鈴蘭殿。なにか用か?」
「もう、わかってるくせに。言わせないでよね」
身をくねらせる青次郎。
その目が熱っぽく俺を見つめた。
「あたしね……やっぱり仁様のことが忘れられないのよ」
俺は早く忘れたい。
「こう、まぶたを閉じればあなたの顔が浮かんでくるの。やさしく微笑みかけてくれた表情を思い浮かべるたびに、苦しいくらいに胸が高鳴って……嗚呼、仁様っ!」
おまえに対してやさしく微笑みかけた記憶などないが。
「わかります……」
小声で頷く緋澄。
「ここまで言うのじゃから、一晩くらい付き合ってやったらどうじゃ」
その隣で魅狐が無責任なことを言った。
こいつの味方か、おまえたちは。
「すまないが、俺はその気持ちには応えられない。頑張って忘れてくれ」
改めて、はっきりと断わる。
「はぁ……」
青次郎が深いため息をついた。
まぁ……彼も好き好んでそういう星のもとに産まれたわけではないのだ。
そんな物憂げな表情を見ていると少しだけ胸が痛んでくるが……。
やはり男相手ではどうしようもない。
「やっぱりあたしなんかより、そっちの魅狐ちゃん緋澄ちゃんのほうがいいのね……」
それは、まぁ、大抵のやつはそうだろう。
「あたしね、結婚相手を探してずっと旅をしてるんだけど、なかなかうまくいかなくて……どうしてだかわかる?」
「趣向が特殊だからでは……」
そこで俺の中に小さな違和感が頭をもたげた。
なぜ彼が魅狐と緋澄の名を知っているんだ?
さっき名乗ったのは俺だけで、彼女たちは名乗っていなかったはずだが……。
「理由は自分でもちゃんとわかってるのよ。……それはね」
青次郎の顔に微笑みが浮かぶ。
先ほどまでとは違う意味でぞっとするような、冷ややかで酷薄な笑みだった。
「あたし、好きになった人をこの手で殺したくなっちゃうの」
それが冗談で済まなくなったのは、彼が刀を抜いたからだ。
よどみのない動作で振りかぶり、斬りかかってくる。
俺は呆気に取られていたが、反射的に刀を抜き打って防御。
そのまま鍔迫り合いになだれ込んだ。
「何をする!」
「あたしが殺せばその人は永遠にあたしのものになる。だから仁様、あなたもあたしのものになってもらうわよ!」
「勝手な御託を……!」
間近で見る彼の目は真剣そのものだった。
ふざけた理由であれ、本気で俺を斬るつもりなのだろう。
ならば相手をする。
「魅狐、緋澄、下がっていろ!」
「はい……あっ!」
と驚いた声を上げたのは緋澄だった。
横目で背後をうかがう。
「おめぇの性癖も難儀なもんだなぁ、青次郎よ」
後方から、赤ノ介が頭をかきながら歩いてきていた。
そして逃げ道を封じるように立ち塞がる。
「鈴蘭だってば、あんちゃん」
「魎鉄様に命じられたのはふたりの女を殺すことだけ。そっちの旦那まで殺す必要はねぇってのになぁ」
◆
「ぬう……こやつら」
その一言で魅狐も気付いたようだ。
まさか魎鉄の配下だったとは……!
「最初からこうする目的で私たちに近付いたのですか……?」
緋澄が信じられないと言いたげな口調で問う。
同じ半人半鬼という身の上に親近感を覚えていたのかもしれない。
「あたりめぇだろ。けど嫁にしたいと思ったのは本当だぜ」
赤ノ介も刀を抜いて肩に担ぐ。
大柄な体に似合いの大太刀だった。
「俺になびいてくれるくらい可愛げがあれば見逃してやろうと思ったんだがなぁ。棒に振ったのはあんただ。悪く思わねぇでくれよ」
橋の上で前後を挟まれ、逃げ場はない。
だが敵はふたりだ。
数の利はこちらにある。
俺は青次郎を力任せに押しのけ、袈裟懸けに振り下ろす。
だが刃は空を切った。
青次郎が大きく後ろに跳んで間合いを離したからだ。
「緋澄は後ろのやつを頼む」
「わかりました……!」
すでに抜刀していた緋澄が、刀を顔の横に寝かせて構える。
「魅狐はここで待機していろ」
「何もせんでよいのか?」
「状況を見て、どちらかが危うくなったら助けに入ってくれ」
「承知したのじゃ」
俺は正眼の構え。
対して青次郎は、刀を持った手をだらりと下げたままだった。
これは……無形の位。
素人がやると隙だらけなだけだが、達人が行えば自由自在な攻守が可能となる究極の構えだという。
奇妙な風体だが剣の腕は確かなようだ。
緋澄の掛け声と、剣を打ち合う音が背後に聞こえた。
俺は目の前の敵に集中する。
こいつを迅速に倒せば彼女の助太刀にだって入れよう。
「仁様は攻めるほうと攻められるほう、どちらがお好き?」
青次郎が薄く笑う。
「あたしは攻められるほうが好きなの。だからあなたから来てちょうだい」
「ならば、一太刀で決めるぞ」
俺は刀を鞘に収め、居合いの構えを――取ろうとしたところで、左足がまったく動かないことに気がついた。
「なに……!」
視線を落とす。
氷……!?
大きな氷の塊が張り付いて、俺の左足を橋の上に固定していた。
引き剥がそうとするもびくともしない。
刺すような冷たさが今頃になって肌に感じられた。
「ふふふ……馬鹿ね、他の女になんか構ってるからよ」
よく見ると、青次郎の持つ刀が白い霧をまとっていた。
まさか妖刀……!
気付かぬうちにその能力を使っていたのか。
「霞氷神濡散……誰もあたしの恋心からは逃げられない。決して逃さないわよ仁様」
青次郎が突進してくる。
「安心してちょうだい! 実はあたし、攻めるほうもこなせるの!」
ぬかった……!
足を動かせなければ戦いようがない。
……こうなればだ。
「魅狐! 俺を撃て!」
「うむーー妖狐火炎術!」
瞬時に意図を察してくれた魅狐が火の玉を放つ。
俺の左足に命中。
灼熱が足を焼き、そして氷を溶かした。
青次郎はすでに目前。
飛びかかった彼の刀が振り下ろされるのと、俺が一歩を踏み込んだのは同時だった。
ならばあとは剣速がものを言う。
「――雷速抜刀撃」
鞘の内側から放出された稲妻が刀を押し出し、超神速の居合い斬りを放つ。
それで勝負はついた。
青次郎の首が宙を舞い、血の尾を引いて川の中へ落ちる。
体のほうも勢い余って欄干を乗り越え、大きな落水音と共に水しぶきを上げた。
すぐさま背後を振り返る。
緋澄が低い姿勢から放った斬り上げによって、赤ノ介の右足が、膝の辺りで切断されたところだった。
おびただしい血しぶきを噴きながら赤ノ介が倒れる。
そちらの勝負も決したようだった。
◆
「へへっ……つえぇな、あんた……」
石橋の上で仰向けに倒れる赤ノ介が愉快そうに笑った。
体の下には大きな血だまりが広がっている。
右足を斬り落とされ、もうひとりで立つこともできないだろう。
緋澄はそれを下唇を噛んで見下ろしていた。
命を狙って襲いかかってきた敵を返り討ちにしただけだ。
何も気に病む必要はない。
しかし彼女の表情は、そんな言葉では片付けられないほどの憂いに満ちていた。
「ますます惚れたぜ……さあ、早くトドメを刺してくれ……」
「もう勝負はつきました。そんな必要はありません」
緋澄は首を横に振る。
「バカ言っちゃいけねぇぜ……」
赤ノ介は弱々しい呼吸ながら明瞭な口調で言った。
「この状態じゃ俺はもう終わりだ。血が出すぎて死ぬか……仮に助かったとしても、もう戦えやしねぇ」
「ですから……」
「だからこそ、あんたに介錯してくれって言ってんだ」
「緋澄。望む通りにしてやれ」
俺は刀を収め、彼女の背後に歩み寄る。
振り向いた緋澄の顔は裏切られたような絶望感に染まっていた。
「どうして、そんなひどいことを言うのですか……」
「それは違う。そうするのが彼に対する礼儀だからだ」
「礼儀……?」
「戦いの中で生き、戦いの中で死にたいと思うのが武士だ。そして、敗れて殺されるならば、相応に認められる相手であってほしいとも思う」
赤ノ介の口元が緩む。
異論なし、と受け取った。
「彼は緋澄のことをそういう相手だと認めた。それは名誉なことだ。だから、おまえがやらなくてはならない」
「そんな……!」
緋澄は今にも泣きそうな顔をして俯いた。
彼女は武士の装いを真似ているだけで、その覚悟が足りていない。
なればこそ俺が教えてやらなくてはならないのだ。
「敵に対しても礼儀と情けを尽くす。それが武士だ。おまえも刀を持つのなら、その務めを果たせ」
俺は断固とした口調で告げる。
ここで拒否をするようなら、死にゆく赤ノ介があまりに哀れだ。
「……できません……」
「やるんだ」
「いくら仁士郎様の言うことでも……もう戦えない人にそんなことするなんて……私にはできませんっ……!」
しかし緋澄も断固に首を横に振った。
刀に鞘に収める。
それは決定的な意思表示だった。
「緋澄……」
「……へっ」
と、赤ノ介が力なく笑った。
「優しいおひとだなぁ、あんたは。やっぱり嫁にするならあんたみたいな女がいい。……無理を言ってすまなかったな……」
赤ノ介は、握った刀の切っ先を自分の喉に当てがう。
「手のかかる弟が待ってるんでな……あいつの相手探しは、あの世でも苦労しそうだぜ……」
そしてそのまま一気に突き刺した。
◆
「つっ……うう……」
火傷に水がしみて、つい情けない声が出てしまう。
俺は川べりに腰を下ろし、焼けた左足を川の水につけて冷やしていた。
「すまぬ仁士郎、少し火が強すぎたようじゃな……」
真横に座った魅狐が気遣わしげな言葉をかけてくれる。
「いや、あれくらいの火でなければ氷を溶かすことは出来なかったろう。感謝するぞ」
緋澄は立ち尽くし、川の流れを見るともなしに眺めていた。
考えているのはやはり先ほどのことか。
「……なるべくなら、一太刀で首を落としてやるのがいい」
彼女に向けたつもりで独りごちる。
「それが一番、相手を苦しめずに死なせてやることができる。無論相手の力量によっては難しいときもあるが……余計な傷をつけて苦しませることもない」
「……私、間違っていたでしょうか」
緋澄が、胸の前で両手を握りしめる。
吐き出された声はひどく悲しげだった。
「仁士郎様の言う通り、あの方にトドメを刺してあげるべきだったのでしょうか……?」
「俺ならば、そうしていた」
それだけ答えて口を閉じる。
緋澄もそれ以上は聞かず、唇を真一文字に引き締めた。
「しち面倒なものじゃな、武士という連中は」
重苦しい雰囲気に、やれやれ、と言いたげに魅狐が呟く。
「緋澄よ、所詮あやつらは敵じゃ。どう扱おうが構わぬ。あまり思い詰めるでないのじゃ」
「はい……」
だが刀を持つ以上、無秩序に振る舞っていては破落戸と変わらない。
刀は単なる武器ではなく武士の魂の象徴だ。
仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌。
そういった理を心得てこそ刀を持つ資格があるのだと俺は思う。
緋澄にもそういう人間であってほしい。
厳しい物言いだったかもしれないが、そこは俺も譲れないところなのだ。
「……あの、仁士郎様」
やがて緋澄が、俺に向き直っておずおずと口を開いた。
「私は武士の方に憧れていただけで、まだまだ至らないことばかりです。なので今後もこういうことを教えてください。……おねがいします」
そして折り目正しく頭を下げる。
「俺に出来ることなら、そうしよう。……さっきは強く言ってすまなかった」
意地を張らず素直にそうしたことができる彼女を俺は好ましく思った。




