月下の影鬼 後
「ここならば誰の邪魔も入らぬ。気兼ねせず、一対一で勝負と参ろう」
影鬼に先導されてやってきたのは、長い山道を延々と登った先にある広まった平地だった。
ここだけ辺りに木が生えておらず、見通しがいい。
戦うにはうってつけの場所だろう。
ざっと周囲を見渡してみても、罠のようなものは見当たらなかった。
「ならば改めて……俺の名は勇薙仁士郎。死出の土産に覚えておけ」
刀を抜いて正眼に構える。
影鬼も鎖鎌を構えた。
「ゆくぞ……現分身の術」
月が雲に隠れ、辺りに闇が差す。
そして雲間から再び月が現れたとき……。
影鬼が四体に増えていた。
「なにっ……!」
鎖鎌を持っているのは一体のみ。
周りの三体は手ぶらだが、たしかに影鬼そのものだった。
どこからかやってきたわけでもない。
奴の体から滲み出るように、その場へ現れたのだ。
「これは幻でもなければ偽物でもない。四体すべてが本物の私と心得よ」
分身を生み出す妖術……!
そういうものもあるのか。
しかし一対四とは多勢に無勢。
俺は気を引き締め直した。
「……一対一で勝負するのではなかったのか」
「無論、それに二言は無い」
鎖鎌を構えた影鬼が平然と答える。
「こいつらには、私が貴様と戦っているあいだにあの女どもを始末するという大役があるのでな」
「貴様!」
「はぁっ!」
影鬼が鎖鎌の分銅を投げる。
一瞬の動揺を突かれ、鎖が俺の左腕に巻きついた。
「今だ、ゆけっ!」
その瞬間、他の三体の影鬼が一斉に走り出した。
旅籠のある麓へ向かって。
「魍呀様を退けたという貴様をここに釘付けにしておけば、あとの女どもは造作もない」
「くっ……!」
これを画策していたのか。
いくらあのふたりと言えど、三体の鬼に寝込みを襲われたらひとたまりもない。
急いでなんとかしなくては……!
左腕に巻きついた鎖は、恐らく人間ではひとりで持ち上げることすら難しいほど、太くて重い。
俺と影鬼の腕力が拮抗しているためか、力一杯引っ張ってもびくともしなかった。
「ふふふ、焦りが浮かんでいるぞ」
嗜虐的な笑み。
「人間への被害などを気にしているからこのようなことになるのだ。己の甘さと不覚を悔やむがいい!」
「悔やむ必要などない。これから急ぎ貴様らすべてを斬ればよい話だ」
俺は右手に握った刀に稲妻をまとわせる。
そしてその稲妻を切っ先に集め、小さな玉とした。
「出来るものなら――」
「勇薙流妖刀術」
その切っ先で鎖を突く。
「雷重爆撃覇!」
稲妻が弾けて四方八方に飛び散るのと同時に、太くて重い鎖も千切れ飛んだ。
左腕の拘束が解かれる。
「ぬっ!」
目を見開く影鬼。
すでに俺は奴の懐へ飛び込み、刀を振りかぶっていた。
袈裟懸けに振り下ろす。
硬い手応え。金属同士が擦れる音。
鎌のほうで防がれたか……しかし。
俺は瞬時に手首を返し、胴切りを放つ。
今度はたしかな手ごたえがあった。
「うぐっ……!」
影鬼が大量の血しぶきを上げて背中から倒れる。
俺はそれを最後まで見届けることもなく、踵を返して走り出した。
◆
月明かりのみに照らされた山道を、転がるのも恐れず全速力で駆け下りる。
やがて、残り三体いる影鬼のうち、一体の背中が見えてきた。
「あのふたりの元へは行かせん!」
「もう私を倒してきたとは!」
迫る俺に気付き、その影鬼が瞬時に反転して飛びかかってきた。
俺は走る勢いのまま刀を振るう。
一瞬の交差。
そして再び走り出す。
奴の首が夜空へ高く舞い上がったことが、見なくてもわかったからだ。
◆
さながら小動物のように、木々の上を飛び移っていく影鬼の姿が見えた。
山道が九十九折りになっているところではそうして移動したほうが近道になるのかもしれない。
このまま地面を走っていては追いつけない。
「ならばっ!」
俺も幹を蹴りつけて跳躍。
同じように木の上へと跳び上がった。
視界が開け、はるか前方に旅籠の明かりが見えた。
丈夫そうな枝を見極め、枝から枝へと飛び移っていく。
体が一回りほど小さいぶん俺のほうが俊敏だった。
前を跳ぶ影鬼の姿がぐんぐん近づく。
太い枝のしなりを利用して一気に接近。
空中に躍る影鬼へ、大上段から斬りかかった。
「はああっ!」
唐竹割り。
文字通り真っ二つになった影鬼が、暗い木々の中へと落下していった。
あと一体。
◆
止まることなく全速力で山頂から駆け下りてくれば、妖化した肉体であってもさすがに限界が近かった。
心臓は破裂しそうなほど大きな早鐘を打ち、呼吸は乱れに乱れている。
木立を抜けて、旅籠が目の前まで迫ったとき――
木陰から影鬼が飛び出して体当たりを食らわせてきた。
「ぐっ……!」
押し飛ばされて木に叩きつけられる。
背後で太い幹が軋んだ。
「鬼の王に相応しいのはこの世でただ一人のみ! 貴様らのやっていることなど所詮は無駄な足掻きよ!」
影鬼は間髪を入れずに躍りかかり、右手を振り下ろしてくる。
「足掻きもせず前へ進めるものか!」
俺は体勢を崩しながらも、踏み込み、刺突を放った。
結果は相討ち。
影鬼の爪が俺の肩口を浅く裂き、俺の刀が影鬼の胸を深く貫いた。
最後の影鬼が血を吹いて倒れる。
勝負が決した瞬間だった。
肩に手をやってみる。
血は流れているが、やはり表面を切り裂かれただけだ。
包帯を巻いておけば明日の朝には塞がっているだろう。
俺は刀を鞘に収め、旅籠への帰路についた。
それにしても……疲れた。
まだ呼吸は荒く、酷使した体中の筋肉が痛い。
すぐにでも布団に倒れ込みたい気分だ。
今なら一秒とかからずに眠ってしまうだろう。
「見事……と言っておこう、勇薙仁士郎」
だが、まだ眠らせてはもらえないようだった。
◆
背後から影鬼の声がかかったのは、旅籠の手前まで来たときだった
五体目がいたのか……!?
振り向きながら刀の柄に手をかける。
千切れた鎖鎌を持ち、胴体に一文字の傷を刻み、大量の血にまみれた影鬼が、そこに立っていた。
こいつは……五体目ではなく一体目。
山頂で俺を足止めしようとしたやつだ。
トドメを刺し切れていなかったか。
だが傷は相当に深いはず。
そんな状態でなおここまで追いかけてくるとは、敵ながら骨があると言わざるを得ない。
「結局、ここへ戻ってきてしまったな」
影鬼が可笑しそうに笑う。
気づけばここは最初にこいつと対峙した場所だった。
「どうする勇薙仁士郎よ、またあの山頂まで戻るか?」
「正直に言えば遠慮願いたい……そして、どうやらその必要もなさそうだ」
ここで戦えば、旅籠にいる人間たちを巻き込んでしまう、と危惧があったから場所を変えたのだ。
だが今の俺たちはどうだ。
俺は苦しいほどに呼吸もままならず、無茶をさせた四肢が悲鳴を上げている。
そして影鬼は深い傷を受けて滝のように血を流れさせている。
長期戦にはなるまい。
「恐らくは、お互い、次の一撃で勝負がつく……巻き添えは出まい」
俺は身を沈めて居合の構えを取った。
「成る程、その通りよ」
影鬼も同意して鎌を構える。
「だがその前に、影鬼よ……おまえの真意を聞いておきたい」
「真意だと?」
「おまえはここで、人間たちに被害が及んだら胸が痛むと言った。あれは俺をおびき出すための虚言だったのか? それとも……」
最後に斬った影鬼は、旅籠の手前まで来ていたにも関わらず外で俺を待ち伏せていた。
それは旅籠への被害を考えてのことではなかったのか?
「嗚呼、不粋不粋」
影鬼は一笑に付しただけで、答えてはくれなかった。
俺は、こいつは案外正々堂々としたやつなのかもしれない、と思い始めていた。
今も黙って鎌を投げつけていれば俺は反応できずにやられていたかもしれない。
わざわざ声をかける必要などなかったはず。
鬼とはいえ、そういうやつが相手なら爽快な気分で戦えるというものだ。
「影鬼。おまえの名、覚えておく」
「魍呀様を退けたのも納得の剛の者。勇薙仁士郎よ、心惜しいが仕舞いとさせてもらう!」
影鬼が地を蹴って飛びかかってくる。
「勇薙流妖刀術――」
俺はそれに全力を以って応えた。
「雷速抜刀撃!」
鞘の内側から放たれた稲妻によって刀を押し出し、超神速での抜き打ちを可能とする剣技……。
影鬼は自分が斬られたことにも気が付かぬまま、両断されて地面に転がった。
◆
静かに刀を収める。
本当に、これで戦いは終わりだ。
ようやく眠れる……。
だが今の俺には、部屋に戻る体力すら残っていなかった。
意識が遠のいて倒れそうになる。
そんな俺を、誰かが優しく抱き止めていた。
視界が銀色の髪と大きな狐耳によって埋められる。
花のような良い匂いがした。
「魅狐……」
「いつまで経っても戻らぬから、捜しに出てみれば……」
魅狐が気遣わしげに呟く。
「ひとりで戦っておったのか? 無茶をしよるの」
「たまたま報せに行く隙がなかっただけだ。それより、おまえ……その格好はなんだ?」
彼女は白い肌襦袢だけを着た姿だった。
艶かしさについつい息を呑んでしまう。
「着替えるのが面倒じゃったのでな」
「他の男が見たら目がくらんでしまうぞ……」
無論俺にとっても目の毒だが。
「幻術をかけてあるから安心せい。他の人間には普通の着物を着ているように見えるはずじゃ」
俺には見られてもいいのか?
「傷の手当てもせねばならぬようじゃな。さぁ、とっとと部屋に戻るのじゃ」
魅狐が俺の体を支えながら、旅籠の中へと歩き出す。
「血がついてしまうぞ」
体を密着させているので、白い肌襦袢にはすでに赤い染みが広がっていた。
「細かいことを気にするでないわ」
深夜を回っているためか旅籠の中はしんと静まり返っていた。
暗い廊下をふたり身を寄せて少しずつ進んでいく。
動き回って熱くなった体に、彼女の冷たい肌が心地良かった。
「礼を言う……魅狐。あのままだったら外で倒れていたかもしれない」
「わらわたちを狙ってやってきた鬼を相手にしていたのじゃろう? これくらいはしてやるのじゃ」
至近距離で柔和な微笑みが向けられる。
「ご苦労じゃったな、仁士郎や」
それだけで、へとへとになるまで走ったのも報われた気がした。




