月下の影鬼 前
緑に包まれた街道を三人で歩く。
城と城下町は見えなくなっていたが、それでも緋澄は名残惜しそうに時折背後を振り返っていた。
後頭部で結った長い黒髪が馬のしっぽのように揺れている。
白い小袖に桜色の羽織、藤色の袴に刀を帯びた侍姿だ。
「心残りがあるんじゃったら、もうしばし滞在していてもよかったのじゃぞ」
そんな妹を気遣うように魅狐が声をかけた。
腰まで垂れる銀色の髪。頭頂部に立った大きな狐耳。
鮮やかな紅い着物の尻の辺りから、ふかふかした白い尾が垂れ下がっている。
「いえ。私があそこにいたら、また鬼がやってくるかもしれませんし。出発は速いほうがいいです」
自分に対しても言い聞かせるように答える緋澄だった。
「ところで姉様……私、ちぃちゃんのことが気になるのですが」
ちぃちゃん?
「うむ。それはわらわもずっと気掛かりであったのじゃ」
「誰なんだ、それは?」
「私たちの妹です」
「鬼の王と龍族の妻とのあいだに産まれし子、龍姫魑潮じゃ」
なるほど。すなわち鬼の世の王位継承争いをしている五兄弟の――
長兄、鬼王子魎鉄。
次兄、獣王子魍呀。
長姉、妖姫魅狐
次姉、人姫緋澄。
これに次ぐ最後の一人というわけか。
「こういう状況ですから一度会っておきたいです。それで願わくば、ちぃちゃんにも私たちの仲間になってもらえれば……」
「藪をつついて龍が出てこぬとよいがのう」
魅狐は腕を組んで難色を示す。
緋澄同様、魅狐が次の王になることに賛同してくれるのならば良い。
しかし魎鉄の側に付いたり、あるいは自分自身が王になるというつもりなら、俺たちの敵になってしまうのだ。
「危険そうなやつなのか?」
「なんとも言えんのじゃ。龍族というのは俗世と関わりたがらない連中じゃからな……あやつの動向は噂にも聞こえてこぬ」
「でも、きっと大丈夫です。ちぃちゃんですから」
謎の自信で断言する緋澄だった。
俺はその魑潮のことを何も知らないので判断しようがないが……。
「だが結局のところ、おまえが次の王になるにはそいつの了承も得なくてはならないのだろう?」
「うむ……存命している兄弟すべての同意を得るのが条件じゃからな」
「なら会うだけ会ってみたらどうだ。緋澄の言う通り、首尾良く仲間になってくれたら儲けものだ」
なにせ鬼と龍の血を引く者だ。
聞くだけで強そうな感じが伝わってくる。
「ですよね」
俺の賛同が得られたからか、緋澄の表情がぱっと華やいだ。
「まぁ……わらわとしても、そうなってくれるのが好ましいのじゃ。あやつも緋澄と同じくらいに可愛い妹じゃからな」
魅狐は不承不承、頷く。
「たしか龍の里というのがあったはずじゃ。場所は聞いておる。そこにおればよいのじゃが……」
「では、ひとまずそこを目指すとしよう」
◆
歩き続けて夕刻に差し迫った頃。
峠の麓に一軒の旅籠が見えてきたので、今日はそこに宿を取る運びとなった。
暖簾をくぐって中に入ると、年老いた番頭さんが応対してくれる。
「これはこれは。いらっしゃいませ、お客様方。一部屋でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「待つのじゃ!」
自然な流れで決めようとした俺の企みは一秒で魅狐に邪魔されてしまった。
「二部屋に決まっておろう。油断も隙もないやつじゃな……」
「すみません、お客様。実は、あと一部屋しか残っておりませんのですが……」
番頭さんが申し訳なさそうに頭を下げた。
以前もこんな状況に出くわした気がする。
「なんじゃとぉ? また旅芸人の一座が来ているとぬかしたら承知せんぞ」
「は、はぁ……?」
事情を知らぬこの人に言っても意味がわからないだろう。
「ちょうど今の時期は峠の向こうにある町が祭りを催してまして。そこに行き来する人で大層混むんですよ」
「むぅ……」
魅狐が苦虫を噛み潰したような顔をする。
よほど俺と同じ部屋では寝たくないらしい。
理由は思い当たらなくもないが……。
ふとその顔が、妙案を閃いた、とばかりに明るくなった。
「そういえば仁士郎、おぬし廊下で寝るのが趣味と言っておったな?」
言うわけがない。
「今日は思う存分それを満喫してよいぞ?」
「おまえに情けは無いのか……」
「前科のあるやつには無いのじゃ」
冷めた口調で吐き捨てられるとなにも言い返せなかった。
「仁士郎様は廊下で寝るのが趣味なのですか?」
背後で聞いていた緋澄が信じきった顔で訊ねてくる。
「そんなわけはない……魅狐が俺を除け者にして廊下で寝させようとしているだけだ」
「えっ、それは可哀想です。私は別に一緒の部屋でも構いませんけど」
なにっ……?
思わぬ援軍が現れたものだった。
「よし、これで二対一だぞ、魅狐」
三人なのだから多数決は強い力を持つ。
魅狐は返事代わりに、はぁ……と深いため息を吐いた。
「緋澄よ……おぬしは男というものをよく知らぬからそのようなことが言えるのじゃ」
「私なにかいけないことを言いました?」
「あとでじっくり教えてやるのじゃ」
本当に廊下で寝る羽目になりかねないので、出来れば教えないでもらいたい。
◆
ひとっ風呂浴びて部屋に戻るとすでに夕食の膳と酒が用意されていた。
たけのこごはんの芳醇な匂いが胃袋をくすぐる。
魅狐と緋澄が戻ってくるのを待ち、頂くことにした。
城下町にいるあいだは色々あったので、この三人で食事をするのは初めてのことだった。
見目麗しい女ふたりに囲まれての酒席とは……俺も良い身分になったものだ。
浮かれ気分でついつい酒が進んでしまう。
「そういえば」
と、俺はかねてよりの疑問を口にした。
「おまえたちは鬼の血を引いているわりに角はないのだな」
魍呀には猛々しい三本角があったはずだ。
同じ混血の兄弟なのに、意外と違いが出るものなのだろうか。
「いえ、実はあります」
と答えたのは緋澄だった。
「あるのか?」
「はい……ここに」
近くまで寄ってきて、髪をかき分けて見せてくれる。
たしかに、つむじのあたりに米粒ほどの小さな角が一本だけ生えていた。
これなら普段は髪に隠れて見えないはずだ。
「ああ、たしかにあるな。これが角なのか」
指で触れてみると、石のように硬い。
「ひゃうっ……」
その瞬間、緋澄が妙な声を上げた。
「あ、あの、あんまり触らないでもらえますか……? そこは、その……敏感な部分なので……」
そんなことを言われたら触らずにはいられなかった。
「ここか?」
「で、ですからっ……!」
「ここを触ってはいけないのか?」
「ひゃめっ……!」
「触り続けるとどうなるのだ?」
「や……んぅっ……もうっ!」
両手で思い切り突き飛ばされ、後頭部を畳に打った。
「あのっ! 触らないでくださいって言ってますので……!」
「いや、いっそ舐め回したらどうなるのかも試してみたい」
「そんなことしたらもう口聞きませんっ!」
緋澄は厳しい口調で言って、ぷいっと横を向く。
どうやら本気で怒らせてしまったようだった。
「すまない、緋澄……少し悪ふざけがすぎたようだ。もうしないから、どうか許してほしい」
俺は正座に座り直して頭を下げる。
ついつい呑みすぎていたのかもしれない……。
「いえ……わかってくだされば。私も仁士郎様と口が聞けなくなったら困るところでしたので……」
「と口では謝りつつも、いつかねぶりつくしてやろうという決意を心に秘める俺だった……」
「心の声が漏れてます……」
「常に心に秘めておくだけで実行に移したりはしないから安心していい」
「そんなことを常に心に秘められていると思うと気が気じゃないです……」
「……完全に悪酔いしとるな、おぬし」
魅狐がため息まじりに呟いた。
「待てよ、そういうことなら魅狐の頭にも……」
「その舌ひきちぎられたいようじゃな」
まだ何も言っていない。




