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夜鳴きの妖獣 前

 窓から入り込んだ夕陽が、むわりと汗くさい道場の中を茜色に染め上げていた。


「ご指導ありがとうございました!」


 俺を含めた三十余人の門下生が声を揃えて一礼をする。

 道場主たるお祖父じいは、それを受けて「うむ」と短く唸った。


 三つ葉葵の御紋が治める泰平の世であっても、こうして町の剣術道場に通って心身を鍛えようという人は多い。

 稽古を終えた門下生たちがぞろぞろと帰宅していく。

 やがて道場の中は俺とお祖父じいのふたりだけとなった。


仁士郎じんしろうよ」

 お祖父が、門下生を見送り終えた俺を呼ぶ。

「構えろ」

 それは試合を行なうという合図だった。


「はい!」

 俺は喜んで、壁の刀掛けから木刀を持ってくる。

「おねがいいたします!」

 そしてすでに道場の中央で木刀を手にして立っていたお祖父の前で、一礼をしてから正眼の構えを取った。


 こうして直々に試合形式で稽古をつけてくれることは滅多にない。

 自然と俺の興奮も高まっていた。

 なぜかと言うと、お祖父にはこれまで一度も勝ったことがないからだ。


 物心つく前から道場の隅で棒を振って遊んでいたくらいに剣術一筋の十七年。

 その中でお祖父との試合も数え切れないほど行なってきたが、一本として取れたことはなかった。

 だからこそ、今日がその記念すべき日になるかもしれないのが楽しみなのである。


 ……などという楽観的な気持ちは、お祖父が木刀を構えた瞬間に吹き飛んだ。


 あれだけ汗の匂いに蒸していた道場内の空気が一気に冷え込んだようだった。

 俺の喉元に向けて構えられている木刀も、もはや木刀とは思えない。

 俺の命を容易に断つ真剣にさえ見えた。


 齢七十を超える、老いてやせ細った体。

 真っ白な髪と髭。

 身長も今では俺のほうが高い。

 普段は腰や膝が痛いなどといって整骨に通っている――

 そんな老体がただ構えて立っているだけだというのに、背筋が凍るような気迫があった。


 気持ちの上では一本取るつもりではいるものの、本能的な恐怖が湧き上がってくる。

 何回試合をしてもこの恐ろしさは克服できそうにない。


 額から垂れ下がった汗のしずくが右目にかかり、ついまばたきをする。

 まさしくその一瞬を見逃すまいと、お祖父の剣が矢のような速さで迫ってきた。


 とはいえ俺も伊達に鍛えられているわけではない。

 飛来する切っ先をこちらの切っ先で払いのけ、裂帛れっぱくの気合いと共に踏み込む。


「はああっ!」


 放った袈裟斬りは簡単に捌かれてしまう。

 そして雷のような斬り下ろしが俺の頭を直撃した。


 こつり……と、まるで遊びで小突いたのような軽い音が静かな道場の中に響く。


 お祖父が本気で振り下ろしていたら、俺の頭は床に落とした壺のように砕け散っていたことだろう。

 手加減ひとつを取っても恐るべき絶妙さと言えた。



「ご指導ありがとうございました」


 負けた悔しさを表に出さないように居住まいを直し、一礼をする。

 試合は一日一回、一本勝負と決まっていた。


仁士郎じんしろう、臆したな?」

 お祖父の厳しい声に、ぎくりとする。

「はい……」

「そこがおまえの弱みだ。どんな相手であれ、挑むのを恐れるのは男のすることではない」

「努力はしているのですが」


 とはいえ、他の人間を相手にしたときには恐れたことなどない。

 お祖父の気迫が人並み外れているだけだ。

 しかし言い訳でしかないので黙っておくことにする。


「ただ……ずいぶんと上達したな」

 お祖父がシワだらけの顔にさらにシワを寄せて微笑む。

 剣術のことで褒め言葉をくれるなんて滅多にないことだった。

 じんわりと胸が熱くなる。


「本当ですか?」

「以前のおまえであれば最初の一太刀で勝負は決していた。私はそのように打ったつもりだったが、いなされて驚いたぞ」


「では……そろそろ俺も、妖怪退治に連れて行ってくれますか?」

 しかしお祖父は渋い顔をして首を横に振った。


 お祖父こと勇薙いさなぎ義十郎よしじゅうろうは、この道場で剣術を教えている傍ら、妖怪退治を専門とする凄腕の剣客として知られていた。


 俺はそんなお祖父に憧れて、いつか同じ道を歩みたいと思っている。

 だがこれまで一度もその妖怪退治に連れて行ってくれたことはなかった。

 未熟だから、と簡潔な答えが返ってくる。

 そう言われてしまえば俺としては返す言葉がなかった。


 しかしだ。

 お祖父には及ばないものの、俺も剣の腕には多少の自信がある。

 門下生の中では一番強いし、他流試合でもここ数年は負けた記憶がない。


 上達した、と褒めてもらえた今なら大丈夫かとも思ったのだが。

 まだ駄目なのか……。


「仁士郎。おまえの強さは大したものだ」

 俺の落胆ぶりを見かねたからか、慰めの言葉をかけてくれる。

「あとは実戦での経験を積めば、人間相手であればそうそうおくれは取らぬ剣豪にもなれるだろう」


「なら……」

「だが妖怪を相手にする場合は話が別だ」

 言おうとしたことを先回りして否定されてしまう。

「奴らに人間の兵法は通用しない。たとえ私であっても戦いは常に紙一重……いつ殺されてもおかしくない。そのような相手だ」


 お祖父の口調は真剣味を帯びている。

 日頃から妖怪の強大さを肌で感じ取っているからのこその言葉なのだろう。

 それはわかるのだが……。


「なればこそ、俺は一日でも早くお祖父の手伝いがしたい。人々を困らせる妖怪がいるというのなら黙ってはいられません。剣術を学んでいるのもひとえにそのためです」

「如何に甘い果実といえど、熟す前は苦いものよ」

 諭すようでもあり、突き放すような言葉でもあった。


「おまえには素養がある。恵まれた体格、ひたむきな精神、なにより努力家だ。いずれ望みも叶えられよう。今は研鑽けんさんに励め」

「はい……」


 いずれ、というのは、あと何年なのか。

 それは教えてくれなかった。


 ◆


「明日からまた退治に出かけてくる」

 ふたりで夕食を取っているとき、お祖父じいがふと切り出した。


 俺には両親も兄弟もいない。

 物心がついたときから家族はお祖父ひとりだけだった。


「今回は長旅になる。数日か数週間か、しばらくは戻らない。家のことを頼んだぞ」

「それは構いませんが。今度はどのような相手なのです?」

「うむ……どうにも厄介な鬼が一匹いるようだ」

「鬼……」


「妖怪は大まかに鬼とそれ以外とに分けられる。鬼族は数が多く、気性が荒く、取り分け力が強い。故に手早く対処せねばならないのだ」


 お祖父の眼差しはいつになく険しい。

 しかし、どんな妖怪が相手であれ、今度も見事に斬り伏せて帰ってきてくれるだろう。

 俺はなんの疑いもなくそう思っていた。


 ◆


 翌日の早朝、お祖父は近くに住む浪人の伍介ごすけ殿を連れ立って出かけていった。

 彼も相当の達人だ。

 そしてお祖父とは旧知の仲。

 厄介な鬼とやらを退治しにいくお供には申し分ないだろう。


 お祖父がいないあいだ剣術道場は休みとなる。

 しかし俺のやることは変わらない。

 まずは道場の床磨き。

 そして木剣による素振り二千回。

 それが毎朝の日課だった。


 井戸で汗を流しているとき、

「ごめんくだせぇ! 勇薙いさなぎ様! 勇薙いさなぎ義十郎よしじゅうろう様はおられませんかっ!」

 と、お祖父を呼ぶ声が聞こえてきた。


 ◆


「なにかご用ですか?」

 門の前にいたのは百姓風の若い男だった。

 なにやら顔色が悪く、目に濃い隈が浮かび、疲労困憊といった様子である。


「私は隣の麻村から来た太吉たきちというもんですが、少し前から妖怪が出て皆困ってまして……勇薙様に退治していただこうかとおねがいに参りました」


 運の悪いときに来たものだった。


「申し訳ない。お祖父じいは別の妖怪を退治に出かけていきまして……戻るのは数日後か数週間後か、とにかくわからないのです」

「そ、そんな……!」


 太吉さんは脱力したようにその場にへたり込んだ。


「村の皆がもう限界で……一刻を争うことなのですが……」

 顔は絶望の色に染まっている。

 天にも見放された気分とはこういうのを言うのかもしれない。


 目の前に助けを求めている人がいるのに、俺は何も出来ず、追い返すことしかできないのだろうか……?

 胸が締め付けられるように痛む。


「……俺が代わりに退治してみましょう」

 と口走ったのは無意識でのことだった。

 太吉さんは一転して表情を輝かせる。


「本当ですか!?」

「俺は孫の仁士郎じんしろうと言います。お祖父には及びませんが、剣は立つつもりです。力になれるかもしれません」

「あ、ありがとうございます!」


 太吉さんはすがりつくように頭を下げてお礼を言ってくれた。


「いや、お礼はまだ早いです。支度をしてきますので、少し待っていてください」


 ◆


 自室に戻って稽古着を脱ぎ、藍色の小袖と鼠色の馬乗り袴に着替える。

 そして刀掛けから業物を手に取った。

 木刀とは明らかに違う、真剣の重みがずしりと手にのしかかった。


 稽古で巻藁まきわらを斬るくらいはするが、無論、人も妖怪も斬ったことはない。

 勢いで安請け合いをしてしまったが、果たして俺に斬ることができるのか……。

 いや、やるしかないのだ。


 彼を見捨ててはおけない。

 それに自力で妖怪を倒してみせれば、きっとお祖父だって俺を認めざるを得ないはずだ。


「義を見てせざるは勇なきなり……」

 自分を鼓舞するように口の中で唱える。

 そして大小の刀を腰に差し、胸を張って自室を出た。


 ◆


 農村だというのに畑にいる百姓の数は少ない。

 しかもその大半が座り込んでいたり、ぼーっと立っていたりして、作業をしている人はほんのわずかだけだった。

 明らかに異様な光景だ。


「その妖怪は夜鳴きをするのです」


 道すがら、太吉さんが詳しい話を聞かせてくれる。


「夜鳴き……?」

「はい。数日ほど前から、夜な夜な、山のほうから鳥とも獣とも言えない奇怪な声が聞こえてくるようになったのです」

 太吉さんは前方にそびえる山をあおぐ。


「一晩中鳴いているので寝るどころではありません。そのせいで近隣の百姓は疲れ切り、昼間の仕事も手につかなくなっているのです」


 これは案外大きな問題だ。

 百姓の方々が睡眠不足により働けないとなると作物の収穫にも支障が出てくる。

 放っておいたら、いずれ町人やお役人も含めすべての人々が困ることになるのだ。


 早急になんとかせねばなるまい。

 お祖父の帰りを待たずにいて正解だったかもしれない。


 ◆


 夜鳴き妖怪は文字通り夜にならないと現れないらしいので、日が暮れるまで、山の麓にある太吉さんの家で待たせてもらうことにした。


 太吉さんの家族も皆疲れた様子で目の下に濃い隈を浮かばせていた。

 寝たいのに寝かせてもらえないとなると、これはもはや拷問だ。


 やがて日が沈み、辺りに暗がりが訪れる。

 出発の準備をしようと、火打石を打って提灯に火を灯していたときだった。


 すぐ裏の山のほうから、ヒョー、ヒョーという硝子を削るような不快な鳴き声が響いてきた。


「これです……!」

 太吉さんが青い顔をして耳をふさぐ。


「これが……妖怪の鳴き声か……」

 たしかに鳥とも獣とも違う。

 不気味なほどに甲高く、背中のあたりがぞわぞわするような鳴き声だった。

 こんなものを一晩中聞かされていたらたまったものではないだろう。


「山へは俺ひとりで登ります。太吉さんは家で待っていてください」

「ええ……仁士郎さん、どうかお気をつけて……」

「必ず退治してきます。武士に二言はないので、必ずと言ったら、それは必ずということです」


 それは太吉さんへの約束でもあり、自分の不安を払拭するための決意表明でもあった。


 ◆


 幸いにも満月だったので提灯の明かりと合わせてどうにか山道を歩いていくことができた。

 ヒョー、ヒョー、という奇怪な鳴き声はだんだんと大きくなってくる。

 長く聞いていると頭痛がするような声だった。


 その鳴き声が、途端に止む。

 すると今度は熊の雄叫びが山間に響き渡った。

 熊の声はひとつではなく、幾重にも聞こえてくる。


 用心して進んでいくと、山道の上に大きな物陰が見えた。

 提灯で照らしてみる。

 熊の死骸だった。


「これは……!」

 思わず声が出る。


 胴体に大きな傷。

 それが致命傷だろうか。

 だが、あまりに大きすぎる。

 大太刀で斬ったとしてもこれほどの傷はつけられないはずだ。


 熊同士の争いとも思えない。

 斬馬刀並みの刃物で斬られたか……あるいはもっと巨大な生物の爪で引き裂かれたか……。


 熊の死骸はひとつだけではなかった。

 山道を進んでいくたびに続々と倒れている巨体を発見する。

 全部で十頭ほどもいただろうか。

 そのどれもが、やはり大きな切り傷を刻みつけられていた。

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