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竹林の怨霊 後

 緋澄ひすみを先頭にして、三人連なって竹林の中を進んでいく。

 群生した竹によって見通しがきかず、生い茂った葉が太陽光を遮って薄暗い。

 こんな場所では緋澄ひすみの鼻だけが頼りだった。


「旦那さんは、こんなところへひとりで何をしに……?」

「わかりません。何も言わずに出て行ったきりなので……」

 それがわかれば捜す手がかりになるかとも思ったのだが。


「真面目な人なので、こんなこと今まで一度もなくて……」

 お雪さんの表情は深い悲哀に染まっていた。

 幼い子と妻を残して何も言わずに消えてしまった旦那とは……。


「きっと深い事情があるのだろう。そしてそれは、言わないほうがあなたのためだと思ったのかもしれない」

「事情があったのだしても……私は相談してもらえなかったことのほうが悲しい。妻なのに……」


 まるでお雪さんの心の声を代弁するかのように、赤子が大声で泣き始めた。

「ど、どうしたんですか?」

 緋澄ひすみも立ち止まって振り返る。


「はいはい」

 お雪さんは慣れた手つきでおんぶ紐を外し、赤子を前に抱き直した。

「お腹が空いたのでしょう。今お乳をあげますからね」


 近くにあった岩に腰掛けて帯を解き始める。

 着物の前がはだけ、胸元の白い肌があらわになった。


 俺はそんな様子をぼんやりと眺めていたが……。

「……ずっと見ているつもりですか?」

 緋澄ひすみが責めるような声を出したのであわてて顔をそらした。


「いや、決してそんなことは……」

 単に微笑ましく思っただけで、助兵衛心があったわけではない。

 ……と弁明しても詮無いことだろう。


「ちょ、ちょっと近くを見回ってくる」

 俺はそそくさとその場を離れた。


 ◆


 俺は赤子の頃からお祖父じいひとりに育てられていたそうだからな。

 ああやって母親のお乳を飲んだことすらあるのかどうか……。

 そんなことを思い耽ってぼんやりとしていただけだ。


 と、なかなかの言い訳を考え終えたとき。

 前方の竹の隙間に青い着物がちらりと見えた。


 人がいた……?

 それに、捜している旦那さんも、たしか青い着物を着ていたはずだ。

 俺は小走りで追いかける。


 林立する竹をすり抜けるように進んでいくと、やがて青い着物の背中が見えてきた。

 男性だ。

 ふらふらと頼りなく歩いていたが、突然その場にうずくまった。


「お尋ねするが!」

 俺は歩調を落として背後から声をかける。

「あなたは、お雪さんの旦那ではないか?」

「……お雪……ウゥ……」


 地の底から響いてくるような呟きが聞こえた。

 旦那で間違いなさそうだが、明らかに様子がおかしい。


「どうした? 具合が悪いのか?」

「……俺に……近寄るな……」

「そういうわけにもいかん」


 うずくまった背中へゆっくりと歩み寄った。

 着物はところどころが破けていてぼろぼろになっている。

 その隙間から妙に毛深い肌が覗いていた。

 短い茶色の毛に覆われた肌は、どう見ても人間のものではない。


「お雪さんがあなたを捜して近くまで来ている。なぜ黙って姿を消したりしたのだ」

「俺に……近、寄る、な……」


 旦那さんの真横まで来て顔を覗き込んだとき、俺は思わず息を呑んだ。

 苦しそうにしかめられた顔が、見る見るうちに、猪の顔へと変化したからだ。


「あなたは……!」

「ウゥ……オアアァッ!」

 旦那さんが叫び声を上げて腕を振る。

 次の瞬間、俺は吹き飛ばされ、竹に背中を打ちつけていた。


 鬼にも匹敵するほどの怪力……!


 立ち上がった旦那さんの体は一回りほども大きくなっていた。

 そして顔だけでなく、首、胸、腕、足と見える部分すべてが猪の獣皮へと変わっている。

 まっすぐに俺へ向けられた目は血走り、凶暴な光を宿していた。


「オオオォッ!」

 獣そのものといった雄叫びを上げながら突進してくる。


 真横へ飛び込んで回避。

 無数の竹が容易になぎ倒されたのが音でわかった。

 素早く起き上がったときには、猪と化した旦那さんがすでに方向転換を済ませ、再び俺へと突進してきていた。


「どうした!? 落ち着け!」

 だが言葉が届いた様子はなかった。

 とはいえ斬り伏せるわけにもいかん。


 俺は足腰を踏ん張り、その突進を真っ向から受け止めた。


 さながら力士の組み合い。

「ウゥ……ウゥゥ……!」

 鼻息を荒くする猪の顔が眼前で唸り声を上げる。

 少しでも力を緩めればまた吹き飛ばされてしまうだろう。

 腕力は互角。

 膠着状態にもつれ込んだ。


「頼む……話を聞いてくれ……!」

 完全なる獣になってしまったとでも言うのだろうか。

 

「仁士郎様っ!」

 そのとき、緋澄ひすみとお雪さんが駆けつけてきた。


「離れていろ!」

 俺は組み合ったままで叫んだ。

「旦那さんは見つかったがこの様子だ! 正気を失っている!」


「そっ、それが……あのひと……!?」

 赤子を抱いたお雪さんが唖然として立ち尽くす。

「ずいぶん野性的な旦那様ですね……」

 その隣で緋澄ひすみが奇天烈な感想を漏らした。


「俺が見ている前でこのように変化した! なにか、もののけの仕業ではないのか!?」

 あいにく俺にはもののけに関する知識がまるでない。

 この場に魅狐みこがいてくれたらサラリと説明してくれていたかもしれないのだが……。


「それでしたら猪殺怪ちょさっかいかもしれません!」

 おお、さすがは妹だけある。

「殺された猪の怨念が高まって形となったあやかしです。取り憑かれてしまった者は凶暴になって、手当たり次第に人を襲うようになると聞いたことがあります」


「猪……!」

 お雪さんがはっとした表情を浮き上がらせた。

「心当たりがありますか?」

「はい……一週間ほど前、近所の畑が猪によって食い荒らされる被害を受けて困っていたので、主人が殺生したのですが……」

 

 その恨みで旦那さんに取り憑いたといったところか。


緋澄ひすみ、どうすればこいつを退治できる!?」

「わかりませんっ!」

 肝心なところで頼りにならん……!


 ひとまず大人しくさせねばならんな。

 言葉が通じぬのなら、実力行使あるのみだ。


 俺は巴投げの要領で猪を背後に投げ飛ばした。

 そして素早く向き直り、徒手空拳の構えを取る。


「猪よ、おまえも生きるために畑の作物を取った。殺されて恨みを抱くのも道理」

 猪も起き上がって俺へと正対した。

「ならばその恨みと怒り、この勇薙いさなぎ仁士郎へ存分にぶつけるといい!」


 猪が猛烈な勢いで突進してくる。

 俺はその鼻頭へ拳を放った。

 猪は少しだけよろめいたが、負けじと俺の顔にも拳を打ち込んできた。

 

 そのまま足を止めて殴り合う。

 猪の腕は俺より一回りも太く大きく、打撃は重く、速い。

 だが元々が獣なだけに力任せに放っているだけだった。

 見切るのはそう難しいことではない。


「もっと打ち込んでこい! 恨みをすべて吐き出すまで、とことん付き合ってやってもよいぞ!」

 俺は腕を立てて猛烈な乱打を防ぎつつ、隙を突いて的確な一打を与えていった。


 やがて猪の息が荒くなってくる。

 さすがに奴の体力にも限界が近付いてきたのだろう。


「はあぁっ!」

 動きが鈍ったところを見計らって、気勢と共に渾身の右拳を猪の顎に叩き込んだ。


 猪がひっくり返って尻餅をつく。

 そのとき、猪に支配された体から、黒い煙のようなものが立ち昇った。


「仁士郎様っ、それを斬ってください!」

「応!」


 緋澄ひすみの声に従って刀を抜き打つ。

 まさしく煙を斬ったかのごとく手応えは皆無。

「アアアァァァッ!」

 しかし次の瞬間、奇怪な断末魔の叫びが竹林に響き渡った。


 黒い煙が霧散していく。

 すると猪に変化していた旦那さんの体が、見る間に元の人間の体へと戻っていった。


「退治できたのか……?」

 あるいは思い切り暴れて猪の気が済んだのか。

 再び変化する兆候はない。

 俺は深く息を吐いて、刀を鞘に納めた。


 戦いが終わった気配が向こうにも伝わったのだろう。

「あなたっ!」

 お雪さんが駆け寄ってきて、仰向けに倒れた旦那さんに抱きついた。


「お雪……天……すまない……」

 旦那さんが息も絶え絶えに呟く。

「俺の中に……乱暴な感情が芽生え……自分ではどうすることもできず……せめて、おまえたちだけでも巻き込むまいと……」


「嗚呼……もういいのです。こうして正気に戻ってくれたのですから……!」

 お雪さんは、旦那さんの胸に顔をうずめてしとしとと泣き出す。

 それは喜びと安堵の涙だった。


「仁士郎様、大丈夫ですか?」

「ああ。大した怪我はない」

 俺と緋澄ひすみは隣に並び、そんな光景を微笑ましく眺めた。


 ◆


 竹林を抜けて街道に出るところまで付き添い、俺たちは別れることとなった。


「仁士郎さん、緋澄ひすみさん、本当に、なんとお礼を言ったらいいやら……」

 お雪さんに体を支えられた旦那さんが申し訳なさそうに言う。


「いや、しっかり体を治して、奥方とお子さんにもう心配をかけさせないようにしてくれ。それが一番の報いになる」

 さんざん殴った俺が言うのもなんであるが。


「このご恩は一生忘れません。ありがとうございました」

 その後もお雪さんと旦那さんは何度もお礼を言いながら、ふたり寄り添い合って街道を歩いていった。


「良いご夫婦でしたね。うまく解決できてよかったです」

 後ろ姿を見届けて緋澄ひすみが呟く。

「そうだな。きっと魅狐みこも許してくれるだろう」


 魅狐みこへは悪いことをしたと思うが、さほど時間は食っていないはずだ。

 馬の体力も回復している頃なので今から急げば充分に間に合うだろう。


「仁士郎様、その……つかぬことをお尋ねしますが」

 緋澄ひすみが、なにやら急に手をもじもじとさせ始めた。

 視線は足元に落ちている。

「以前、仁士郎様は十八歳と言っていましたけど……結婚はされているんですか?」


「うむ?」

「別に深い意味はないのですけど、お雪様たちを見ていてちょっとそんなことを思って……あっ、あの、本当に、深い意味は何もなくてですね……」


 自分で言い出しておきながら何故かしどろもどろになる緋澄ひすみだった。


「しそびれたと言うべきか。剣術に明け暮れていたから、生憎そういうのとは無縁だった」

「……意外です」


 呟いた彼女の表情はなにやら明るい。


「仁士郎様は優しいですし、剣の腕も立ちますから、きっと周りの女性も放っておかないのではと思いまして」

「そう言ってくれると男冥利につきるな」

 だが実際そうではないので、とんだ買いかぶりだ。


緋澄ひすみのほうはどうなんだ。姫様なのだから許婚いいなずけがいたりするのではないか?」

「いいえ。私こそ、そういうのとは無縁です。……鬼の血が混ざった女をお嫁にしたいと思う人なんていませんから」


 声に若干の寂寥が含まれる。

 皆から慕われてはいても、それとこれとは別問題なのかもしれない。


「あの」

 緋澄ひすみは伺うように、上目遣いで俺を見る。

「仁士郎様も、やはり、私のような女は恐いとか気味が悪いとか思いますでしょうか……?」


 俺は首を横に振ってみせた。


「今は俺も半人半妖の身だからな。似た者同士、むしろ親近感を覚えているくらいだ」

「そうですか……それならよかったです」


 口の中で呟き、忍ぶように微笑みを浮かべる緋澄ひすみだった。


 ◆


 その後、馬を走らせた俺たちは、首尾良く稲荷神社で御神酒を手に入れることが出来た。

 戻ってそれを呑ませてやると魅狐みこの体調はあっという間に良くなった。


 大事を取って、と次の日も休ませることにする。

 そのあいだに俺と緋澄ひすみは町の復興作業を可能な限り手伝うことにした。

 緋澄ひすみはもう無茶をすることもなくなっていた。


 そしてさらに次の日。

 俺と魅狐みこ緋澄ひすみの三人は、町人たちから惜しみない送別を受けながら、城下町を旅立つのだった。

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