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竹林の怨霊 前

 城内の一室。客間だろうか。

 布団に寝かされた魅狐みこが、火照った顔をしてうんうんとうなされていた。


「昨日から少し具合が悪い様子だったのですが……」

 布団の傍らで正座をした緋澄ひすみが心細そうに呟く。

 今朝になってさらに状態が悪くなったのだと。


「お医者様に診てもらったのですけど、その……やはり人間のお医者様にはよくわからなかったみたいで……」

 その医者も手に余ったことだろう。

 妖狐相手に人間の医術が通用しないのは道理だ。


「それで、もしかしたら仁士郎じんしろう様ならなにかわかるかもと思ったのですが」

「すまない。俺はこの体になってからまだ日が浅いものでな。あやかしのことは、なにもわからない」

「そうですか……」


 あやかしの病のことなら、やはりあやかしの医者に頼るしかないのだろうか。

 しかしそんな知り合いがいるはずもなく。


「力になれず申し訳ない」

「いえ、謝らないでください。仁士郎様はなにも悪くないですから……」


 ふたりともが黙ってしまい、部屋の中を重苦しい沈黙が支配した。


「……何を通夜みたいな顔をしておる……」

 それを破ったのは魅狐みこの鼻詰まった声だった。


「姉様っ!」

 緋澄ひすみが心配そうに布団にしがみつく。

魅狐みこ、具合はどうだ?」

 俺も身を乗り出して顔をうかがった。


「大袈裟な連中じゃな……」

 力なく笑ったあと、ごほごほと咳をした。

「案ずるな……ただの狐風邪きつねかぜじゃ」


「狐風邪……?」

「熱が出て、体が重とうなって、頭と喉が痛うなって、咳や鼻水が出る病気じゃ」

 症状を聞く限りはただの風邪だった。


「治るのか?」

「本来なら、狐の里謹製の御神酒おみきを呑めばすぐに良くなるのじゃが……」

「それはどこにある?」

「もう呑みきってしまって残ってないのじゃ」


「もしやそれは、私が毎日呑ませてもらっていた、あの……」

 緋澄ひすみが、自分に非があるかのように眉根を寄せた。

 瀕死だった彼女が劇的に回復したのはあの御神酒を呑み続けたおかげだったのだろう。


「気にするでない」

 魅狐みこはほんの少し首を横に振った。

「数日も寝ていれば自然に治るような軽い病じゃ」

「しかし、数日もこのままなんて……」


 とはいえ、魅狐みこの故郷はすでに滅ぼされている。

 その御神酒を手に入れる手段はもうなさそうだった。


「そ、そういえば……!」

 緋澄ひすみがはっとしたように顔を上げた。

「ここからずっと南へ行ったところに稲荷神社があったはずです。そこに奉納されたものが残っているかもしれません」


 稲荷神社といえば妖狐とは縁深い。

 その可能性はありそうだ。


「馬を飛ばせば半日とかからず戻ってこられるはず……! 姉様、少しだけ辛抱していてくださいっ!」

 言うが早いか、緋澄ひすみは慌ただしく部屋を飛び出していった。


「お、俺も行くぞ」

 あとを追おうと、急いで立ち上がる。

「待ってろ魅狐みこ。すぐに持ち帰ってくるからな」

「うむ……期待せずに待ってるのじゃ」

 魅狐みこは布団の中から火照った顔を覗かせて、苦しそうに微笑んだ。


 ◆


 魅狐みこの世話は緋澄ひすみについていた侍女たちが行なってくれるらしい。

 手早く羽織袴に着替えた緋澄ひすみと共に城の庭先に出ると、すでに二頭の馬が用意されていた。


 ふたりでそれに乗って駆け出す。

 朝の勤めを始めようとしていた商売人たちが、何事かと悉く振り返った。


 ◆


 いくら馬と言えども無尽蔵に走り続けられるわけはない。


 城が遠景にも見えなくなった頃。

 街道から少し外れた竹林の小脇、なだらかな小川沿いで馬を止めてやると、二頭揃って勢い良く川の水を飲み始めた。


 俺と緋澄ひすみは傍らの倒木に腰かけて彼らの回復を待つことにした。


 抜けるような青空。

 小川のせせらぎ。

 心地よい微風がかすかに竹の葉を揺らす。

 魅狐みこに大事になければ、弁当でも持ってきて野外で食べたいような行楽日和だった。


「……あの、仁士郎様……」

 緋澄ひすみの心細そうなささやきが聞こえて、俺は浮かれた考えを頭から追い出した。

「昨日のことなのですが……」


 昨日といえば、恐らく宿屋で話をした件だろう。


「すまなかったな。話しにくいことを無理に聞き出したようで」

「いえ……仁士郎様に聞いてもらって、少しだけ気分がすっきりしました。今まで誰にも話せなかったことなので」


 悩みというのは誰かに聞いてもらうだけでも楽になるものだ。

 それで多少なりとも前を向くことができたのなら俺としても嬉しい。


「それで昨日、あれから私なりに考えてみたのですが……やはり、私は少し無理をしていたようです」

 緋澄ひすみの口調は重い。

 だが昨日のような陰鬱さは感じなかった。

 それを自覚できたことで、彼女の中でなにかが上向きになったのかもしれない。


「そうしてしまうのは、きっと私の心が不安に負けてしまうほど弱かったからです。なのでこれからは、なるべく心を強く持とうと決めました」

 それは言葉ほど簡単なことではないが、そう心に決めることが大事だ。

 小さな決意こそ大いなる道への第一歩たりえる。


「良い心掛けだ。それを忘れぬ限りは、昨日のような無茶はもうしないだろう」

「はい……仁士郎様のことをずっと思い浮かべていたら、なんとなく勇気が湧いてきて、そう思えるようになりました」

「それは……うむ……光栄だな」


 ……なにやら恥ずかしいことを言われた気がする。

 彼女もそれに気付いたのだろう、頬を染めて急にもじもじとし始めた。


「いえっ、その、別に、一晩中思い浮かべていたとか、決してそんなことはないのですが……」


 そんな様子を見ているとこちらまで気恥ずかしくなりそうだった。

 黙っているわけにもいかないので、なにか答えようと言葉を探していたとき……。


「ここにいましたのね、あなたっ!」

 見知らぬ女が後ろから抱きついてきた。


 ど、どういうことだ……?


「嗚呼……心配しましたわ……でもよかった……さぁ、帰りましょう、あなた……」


 女は泣きながら俺の背中にしがみついく。

 いったいなんなんだ……。

 状況がまるでわからない。

 ふと隣を見ると、緋澄ひすみが目を丸くして口を半開きにしていた。


「も、もしかしてその人……仁士郎様の奥方様……」

 と、とにかくその誤解を解かねばなるまい。


「申し訳ないが奥方、誰かと人違いをしていないか? 俺は勇薙いさなぎ仁士郎という者だが……」

「えっ……!」

 女は慌てて俺から体を離した。


「し、失礼しましたっ……! 後ろ姿が主人によく似ていたもので……本当にご迷惑を……」

「いや、迷惑というほどではないが」


 年の頃は二十代の前半ほど。

 ほっそりとしていて、どことなく武家の女らしい品がある。

 そしてよく見ると赤子を背負っていた。


「あ、人違いだったのですか……よかったです」

 緋澄ひすみは胸に手を当ててほっと息を吐き、女性に向き直った。

「旦那様を捜しているのですか?」


「はい……昨日から帰っていなくて……」

 女性は涙を拭いながら答える。

「先ほど道ですれ違った人から、似たお侍様がひとりであの竹林へ入っていくところを見た、と聞いたのですが……どうやらそれも勇薙様のことだったようですね……」


 女性はがっかりとした表情で、足元の風呂敷包みを拾い上げる。

 さっき抱きつくときに落としたものだろうか。


「待て……ひとりで、と言っていたのだろう? 俺たちはずっとふたりで馬に乗ってきたし、竹林にも入っていない。それは旦那さんのことかもしれないぞ」

「本当ですか?」

 女性の顔が見るまに明るくなった。

 よほど旦那さんに会いたいのだろうということが伝わってくる。


「重ね重ねすみませんでした。では、私はこれで……」

 女性は軽く頭を下げ、小川の向こうにある深い竹林へ向かって歩き出した。


「奥方、ひとりであそこへ入られるつもりか? そんな小さな子を連れて」

 なので思わず呼び止めてしまう。


「危険なのは承知しています」

 それでも、と女性の声からは断固とした意志が感じられた。

「主人は数日ほど前から様子がおかしくて……万が一のことがあったらと思うと、いてもたってもいられないのです」


「それなら……」

 俺たちも捜すのを手伝おう、という言葉が喉元まで出かかった。


 普段であればそうしたいところだが、今は魅狐みこのこともあるのだった。

 だがこのまま奥方を放っておいてもよいものか……。


 いや、迷っていればどちらも手遅れになる。

 正しいにせよ間違いにせよ、急を要することなら決断は早いほうがいいのだ。


緋澄ひすみ……あとで、魅狐みこへ一緒に謝ってくれるか?」

「もちろんです」

 緋澄ひすみの返事は快活だった。

「私も同じことを考えていました。きっと姉様がこの場にいたら、自分のことよりこの人のことを優先すべきと言ってくれていたと思います」


 俺としては、他の人のことはいいから自分を早くなんとかしてくれ……と言いそうな気がしたが。

 ともかくその旦那さんをさっさと捜し出して、それから稲荷神社へ急ぐ。

 今はそれが最善と思った。


 ◆


 奥方の名前はお雪さんといい、この近くに住んでいるそうだ。

 旦那さんは俺と同じくらいの背格好で、俺と同じような青っぽい着物を着た武士だという。

 後ろ姿なら見間違えるのも仕方ないだろう。


「この子はなんというんです?」

 緋澄ひすみが、奥方の背負った赤子を撫でながら尋ねた。

てんといいます」

「かわいいお名前ですね」


 赤子を眺める緋澄ひすみの顔はなんとも至福そうに緩んでいる。

 やはり女だけあってか赤子を前にすると母性本能とやらがくすぐられるのだろうか。


「お雪様。なにか、旦那様の持ち物を持っていませんか?」

「着の身着のまま出て行ったので、一応着替えを持ってきましたが……」

 お雪さんは風呂敷包みを開け、赤子用の品々のあいだから着物を取り出した。


「ちょっと失礼して……」

 と断わって、緋澄ひすみはその着物に顔をうずめた。


 突然の奇行にお雪さんは絶句する。

 俺も一瞬は驚いたが、すぐに、匂いを覚えているのだと察しがついた。

 俺の肉体が妖化したことで五感が強化されたように、鬼の血を引く彼女も人並み外れた嗅覚を有しているのだろう。


 緋澄ひすみは顔を上げ、鼻を右へ左へ向けてくんくんと匂いを嗅ぐ。

 犬みたいだなという感想は胸の内に留めておくことにした。


「姉様のようにはいきませんが……おおよその方角くらいならわかりそうです」

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