砂上の楼閣 後
作業現場に戻り、緋澄を休憩させてやったことを伝えると、人々は一様に安心した表情を見せた。
こんなに多くの人に心配されているのだ。
少しくらい休んだって罰は当たらない。
そのまま夕刻まで作業を続けていたが、緋澄が戻ってくることはなかった。
ちゃんと俺の言い付けを守っているのか、あるいは勝手に他の場所へ行ってしまったのか……。
そんな不安を抱えたまま宿に帰る。
部屋の中に彼女の姿があったことに、俺はほっと胸をなで下ろした。
緋澄は壁にもたれかかってうたた寝をしていた。
横になればいいものだが、それが彼女なりの譲歩なのかもしれない。
俺が一歩部屋に入った足音で緋澄はびくりと目を覚ました。
「あっ……私……寝てしまいましたか……」
そして窓から注ぐ夕日に気付いて愕然とした顔をする。
「もうこんな時間に……」
「それほど疲れていたということだろう」
俺は彼女の前で胡座をかいた。
「怪我だってまだ完治していないかもしれない。無理をするな」
「でも、もう体は動きますから。何日も休んでしまったので、そのぶん働いて取り戻さなければ……」
「緋澄。今のおまえは少しおかしい」
直接的な言葉が響いたのか、緋澄は縮こまって畳に視線を落とした。
「なぜそこまで必死になる。なにか理由があるのか?」
作業中に聞いたが、彼女は日頃から町人や百姓の手伝いを買って出ていたという。
そしてそれに対する見返りは何も求めていなかったとも。
給金が貰えるのなら必死に働きもするだろう。
だが彼女は無償ながら、その身を削って働いていたのだ。
奉仕精神と呼ぶにはいささか度が過ぎている。
「心掛けは立派に思うが、自分の体調を顧みずに行なうほどのことなのか?」
「……それは……」
緋澄は思い詰めた顔で、口をわずかに開けたり閉じたりを繰り返す。
言おうか言うまいかを迷っているように見えた。
そんなとき。ふすまが開いて、宿の女将が顔をのぞかせた。
「今日もお疲れ様、仁さん。……あら、緋澄様?」
「あ……ご厄介になっています」
律儀にも畳に手をついて頭をさげる緋澄。
女将が今気付いたということは、本当にこの部屋から出なかったのだろうか。
「まぁまぁ緋澄様も隅に置けませんねぇ。お酒をお持ちしたのだけれど、ひとつじゃ足りなかったかしら」
「いや、ひとつで結構。お気遣い感謝する」
「ふふ、では、ごゆっくり」
徳利ひとつお猪口ひとつ、そして干し魚を載せた盆だけを置いて女将が出て行く。
なにやら意味深な笑みを含ませてはいたが。
ちょうどいいところに持ってきてくれた。
俺はお猪口に酒を注ぎ、一口に呑みほす。
「緋澄」
そして再び酒を注いだお猪口を彼女へと差し出した。
「思い悩んでいることがあるなら聞く。言いにくいことなら酒の力を借りろ。それでも嫌だというのなら、この件に関してはもう何も聞かん」
このままでは明日も同じことを繰り返してしまうだろう。
それは彼女のためにも良いわけがない。
「……わかりました。いただきます」
緋澄はお猪口を受け取り、ぐいっと一気にあおった。
魅狐もなかなかに酒好きなので似通った部分があるのかもしれない。
緋澄は手酌でもう一杯注ぎ、一気に呑む。
そして続けざまにもう一杯も呑み干した。
まるでヤケ酒のような呑みっぷりだった。
「勧めておいてなんだが、そんな茶の湯みたいに呑むものではないぞ……」
「……私は」
ほのかに紅潮した顔。
重々しい口が開かれる。
「もう嫌われるのはいやなんです」
「誰にだ?」
「……領民の方々にです」
「誰も嫌ってなんかいない。皆おまえのことを心配していたし、働きぶりに感謝もしていた」
「それは、今は、そうなのかもしれませんが……」
うつむいた目は頼りなげに揺らいでいる。
やはり姉妹だけあってか、そんな表情も魅狐と重なる部分があった。
「……私は九つのときにここへやって来ました」
たしかそれまでは魅狐たちと一緒に暮らしていたと言っていたな。
彼女がおずおずと語るのを俺は黙って聞く。
「そのとき、お城の人たちも町の人たちも、あまり良い顔はされませんでした。産まれが産まれです。こういう目の色ですし……噂が広まるのは早いです」
当時の人々を責めることはできないだろう。
鬼の血を引く娘と聞けば、俺だって、妖化する前なら奇異の目を向けていたはずだ。
「姉様たちとも離れ離れになったばかりで、周りからはそんな目を向けられて、とてもつらい日々でした」
「でも私はそんな状態をなんとかしたかったので……なにか、人の役に立つことをしようと思ったんです。そうすれば少しでも受け入れてもらえると思って」
「最初は変な顔をされたり、いやなことを言われたりもしました。けど、次第に、皆様私とも普通に接してくれるようになりました」
「お城の中だけでなく、町にも出るようになって……長い時間をかけて、少しずつ皆様に認めてもらえて……。そして、今があるんです」
「でも認めてもらえたのは、役に立つ緋澄です。役に立たない緋澄は誰からも必要とされていません」
「このまま何もせずに過ごしていれば、またあの頃のような状態に戻ってしまうかもしれない……私はそれが怖いんです」
「無論、この町の人は良い人たちばかりですから、そんなことはないと頭ではわかってはいます」
「わかってはいますが……どうしようもなく不安になってしまいます。だから、なにかをせずにはいられないんです」
たしかに最初は偏見があったかもしれない。
だが町の人々は、すでに緋澄の人柄を知っているはずだ。
健気で、働き者で、人当たりがよくて、なにより他人のために頑張れる彼女のことを。
だから彼女は慕われている。
その信頼が多少のことで揺らぐはずはない。
それでも過去の嫌な思い出が心の奥底にへばりついていて、不安になってしまうのだろう。
故に無理な行ないをしてしまう。
ちょっとしたことで気絶してしまうくらい心身をすり減らしながら、毎日必死に戦っていたのだ。
自分の中に深く根を張る不安感と。
「きっと緋澄というやつは、なかなか自分に自信が持てない性格なのだろうな」
「……そうなのかもしれません」
伏せられたままの瞳。
赤い唇がわずかに歪む。
笑おうとして失敗したのだと思った。
「そういうところは改善すべきだと俺は思う」
「しかし、どうすればいいのか、私にはよくわかりません」
下手な慰めは口にすまい。
きっと今の彼女に必要なのは言葉ではない。
つまるところ緋澄の中に根差しているのは孤独に対する恐怖だ。
それを取り除いてやるには、心に寄り添って、互いに支え合える存在がいればいい。
周りで慕ってくれる不特定多数ではなく。
同じ目線で物事を見て、悩みや苦しみも共有できて、互いに互いを必要とし合える存在。
そういう人物が身近にいればそんな漠然とした不安感だっていずれは解消されていくはずだ。
そして幸いなことに、それにはうってつけのやつがいるではないか。
魅狐だ。
「そうだな……緋澄、こうしよう。これからどうしようもなく不安になったときは、魅狐のことを思い出すんだ」
「姉様を……?」
「あいつはおまえのことを役に立つ立たないで見方を変えるようなやつじゃない。どんな時でもおまえの力になってくれるやつだ」
「それは、そうでしょうけど……」
「世の中にそういうやつが一人でもいると思えば自然と勇気が湧いてくるものだ」
「……そうなんですか……?」
「ああ。間違いない。俺を信じろ」
根拠はないが断言してやる。
それだって自信に繋がるはずだ。
「それで、少しでも勇気が出てきたら、今度はおまえが魅狐の悩みを聞いてやるんだ」
「えっ……?」
「あいつも、心の中の不安と戦い続けている。心の支えになれるのはおまえしかいない」
「……そんなことないです」
緋澄は弱々しく首を横に振った。
それはやはり、自分に対する自信のなさからくる言葉だろう。
「姉様は強い人です。私なんかがいなくとも……」
「緋澄……魅狐は、おまえに会うまでずっと独りだった」
「独り……?」
「聞いていないのかもしれないな。あいつは住んでいた里も、そこにいた同胞たちも、すべてを奪われている……魎鉄の手によって」
「えっ……そんな……私には、そんなこと一言も……」
やはり隠していたか。
最初に会ったときにぼかしていたから、もしやと思ったのだが。
「きっとおまえに心配をかけまいと黙っていたのだろう。だが、はたから見ていてとても辛そうだった。……俺ではあいつの寂しさを埋めてやることはできない」
緋澄は眉根を寄せて黙り込んでいる。
思い起こしているのは魅狐の振る舞いか。
あいつは緋澄の前で弱音など吐いたことはないはずだ。
だから夜中にこっそりと抜け出して、たったひとりでその感情と向かい合っていた。
「あいつにはおまえが必要なんだ。おまえだけが頼りだ。……やってくれるな、緋澄」
「それは……はい。もちろんです」
緋澄は小さな声で、それでもはっきりと返事をして、頷いてみせた。
「私なんかが姉様の支えになれるのでしたら、そうしてみたいです……」
根深い問題なだけに、すぐに解決というわけにはいかないかもしれない。
だが仲の良い姉妹のことだ、きっと互いが互いの力になって良い方向へ進んでくれるだろう。
俺はそう信じる。
いつしか夕日は沈みきり、墨を垂らしたような空には美しい月が浮かんでいた。
◆
緋澄を城まで送っていった帰り道。
俺は、今日一度も魅狐の姿を見てないことに気が付いた。
もう緋澄の看病は必要ないのだから、普通に出歩いてもいいはずだが。
……まぁ、どことなく疲れた顔をしていたから、ゆっくり休んでいるのかもしれないな。
疲れたら休む。それが自然な行動だ。
きっと明日にでもなれば顔を見せに来るだろう。
と楽観していた俺の考えは少し甘いようだった。
◆
翌日の、まだ小鳥のさえずりが聞こえてくるほどの早朝。
俺の部屋へ血相を変えた緋澄が駆け込んできた。
「仁士郎様、魅狐姉様がっ……!」
「ど、どうした?」
俺の頭も完全には起き切ってはいない。
「とにかく、一緒にお城まで来てください……!」