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砂上の楼閣 前

「仁士郎様、おはようございます」


 早朝。

 宿の庭先で刀の素振りをしていると、野間着姿の緋澄ひすみが現われた。

 突然のことだったので俺は呆気に取られ、刀を振りかぶった状態で固まった。


緋澄ひすみ……もう出歩いても平気なのか?」

「はい。おかげさまですっかり良くなりました。なので今日からはまた皆様のお役に立つことができます」


 にこやかに微笑む彼女は、たしかに以前の顔色を取り戻しているように見えた。

 瀕死の重傷を負っていたというのにたった数日でここまで回復してしまうとは。

 鬼の生命力とは凄まじい。


「剣の稽古ですか?」

「ああ。旅に出るようになってからも毎朝欠かさず行なうようにしている」

「そうなのですか。私も見習いたいです」

「剣の道に近道なし。上達には一日一日の積み重ねあるのみ……というのがお祖父じいの教えだったからな」


 そこでようやく刀を振り下ろす。

 俺自身にしか気付けない程度に剣筋が乱れた。

 彼女が元気になった姿を見て、うっかり気が緩んでしまったのだろうか。


「これが済んだら、今日も町の人たちに手を貸しに行こうと思っていたが」

「では私は一足先にそちらを手伝いに行きますね」


 緋澄ひすみは小さく礼をして歩いていく。

 二歩ほど進んだところで、その足がぴたりと止まった。


「その……仁士郎様、ありがとうございました」

 半身だけ振り返ってささやく。

 だが何に対する礼なのかまるで心当たりがなかった。


「毎日お見舞いに来てくださったこと……嬉しかったです」

 それだけ言って、彼女は逃げるように去っていった。


 律儀なやつだ。

 別に、礼を言われるほどのことでもないのだがな、あの程度。

 あんな傷を負わされたとなれば誰だって心配する。

 こういういじらしさを少しくらい魅狐みこにも分けてやってもらいたいものだ……。


 俺は再び刀を振り上げ、振り下ろす。

 今度は誰の目にも明らかなくらい剣の軌道がぐにゃりと歪んだ。


 鼓動がひどく大きく聞こえる。

 どうした。今の一言で不覚にもときめいてしまったのではあるまいな、俺よ。


 ◆


 朝稽古を終えて町に繰り出すと、緋澄ひすみも町の男たちにまざって瓦礫の撤去作業を進めていた。


 元気になったのならすぐにでも魎鉄りょうてつを討つ旅に出たいところではあるが……。

 彼女にとっては育った町だ。

 このまま放っておけないのだろう。

 俺も負けじと作業に取りかかることにした。


 緋澄ひすみの働きぶりは凄まじかった。

 大きな瓦礫もやすやすと持ち上げ、それらが満載された荷車を軽々と走らせていく。

 そして一向に休む気配もない。

 昨日までとは作業効率が段違いだ。

 百人力とはまさにこのことだろう。


 周囲の町人たちも口々に彼女を褒め、感謝していた。


 自分の作業に没頭していた俺は、不意に、どすんという大きな音がして顔を上げた。

 見ると、緋澄ひすみが大きな瓦礫を運ぼうとして落としてしまったようだった。


「すみません、ちょっと手が滑ってしまって……」

 緋澄ひすみは照れくさそうに笑う。

 周りで作業をしていた人々もつられて笑みをこぼした。


 だが、それが二回繰り返されたときは、さすがにしんと静まり返った。


緋澄ひすみ様、ちょっと休憩なされたら……」

「いえ、大丈夫です」

「しかし……」

「本当に大丈夫ですから」


 町人の気遣いに、緋澄ひすみは明らかに息を切らせながら答えた。

 作業を再開させるも、手付きは危うい。

 周囲の人々もそれ以上は口を出せず、心配そうに様子を窺うばかりだった。


 大丈夫なものか……。

 見ていられずに俺が歩み寄ろうしたとき。

 緋澄ひすみが、がくり、と膝をついた。


緋澄ひすみ……無理をするな」

「無理は、していません」

 血の気の引いた顔には玉の汗が浮かんでいる。

 本当に完治しているのだろうか?


「あんな大怪我をして、起きられもせずずっと寝ていたのだろう。いきなり重労働などするものではないぞ」

「だから、なおさら、皆様のお役に立たなくては……」


 振り向いた緋澄ひすみの目には鬼気迫るものが宿っていた。

 まるでこの作業をやらなければ命を取られてしまうかのような。

 そんな強迫めいたものさえ感じられた。


「あとは俺がやっておく。いいから休め」

「休めません」


 いや、少しくらい休めばいいだろう。

 なぜそこまで意地を張る?


「私は平気です。無理もしていませんので……放っておいてください」


 つらそうな顔でそう言われて放っておくやつはいない。

 口で言って聞かないのなら俺にも考えがあった。


「失礼」

 俺は緋澄ひすみの膝の下と腋の下に手を差し込んで抱え上げた。

「わっ……えぇっ……!」

 そしてそのまま早足で歩き出す。


「お、おろしてくださいっ……!」

「出来ん」


 じたばたする彼女を抱えたまま、俺が厄介になっている宿屋へと連れ込んだ。

 はたから見たらひどく誤解を受けそうな行動だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。

 階段を上がって部屋に入ったところで、ようやく畳の上に彼女を下ろした。


「じ、仁士郎様……どういうおつもりですか……?」

 恨めがましい目を向けられる。

 それでも、と思った。


「どうもこうもない。とにかくここで休んでいろ」

「しかし、私は……もう動けるのですから、皆様の役に立たなくては……」

 その心掛けは立派に思う。

 だが少し異常だ。


「俺が戻ってくるまでこの部屋から決して出るな。いいな?」

 一方的に言い残して俺は宿をあとにした。


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