獣血の魍呀 後
魍呀が地を蹴って駆ける。
その速度は矢か疾風か。
先ほどまでとは雲泥の差。
奴が目の前まで迫っても、俺は一切反応することができなかった。
気付いたときには巨大な金棒の一撃を食らい、吹き飛ばされ、建物の壁に叩きつけられていた。
その衝撃で壁が砕け、俺の上へ屋根の一部が降り注いでくる。
「仁士郎様っ!」
全身の骨がきしむような痛みが襲ってきたのは、そんな緋澄の悲鳴が聞こえたあとだった。
魍呀は間髪を入れずに緋澄へ振り向いて、巨大な金棒を軽々と振り回す。
一度、二度と避けた緋澄だったが、三度目で捉えられてしまった姿が瓦礫の隙間から見えた。
体に力が入らない。
まるで四肢が石になってしまったかのように、ぴくりとも動かすことができなかった。
通りの反対側の家に叩きつけられた緋澄へ、魍呀が歩み寄る。
巨大な金棒が天高く掲げられた。
逃げろ、緋澄……!
声すら出せないのが憎い。
そして俺同様にぐったりとした緋澄へ――その金棒が勢い良く振り下ろされた。
家の屋根や壁は粉々に砕け、大きな瓦礫が砂埃と共に舞い散り、地震のごとく大地が揺れた。
「はははははっ! ぐわはははははっ!」
魍呀は勝ち誇った笑い声を上げ、ゆっくりと金棒を持ち上げる。
その先端から真っ赤な鮮血がどろりとこぼれた。
「安心しな、すぐに魅狐も後を追わせてやるからよ」
「魍呀……貴様ぁっ!」
そのとき俺の体を突き動かしたのはひたすらに激情だった。
もはや痛みすら忘れていた。
負傷がどれほどあるのか、骨が折れているのか、あるいは肉が裂けているのか、それすらわからない状態で。
それでも俺は瓦礫を押しのけ、起き上がり、両の足でしっかりと立っていた。
「なんだ、まだ生きていやがったか半妖め」
魍呀が俺に気付いて青灰色に輝く瞳を向ける。
その顔にはすでに勝者の笑みが浮かんでいた。
「武士のくせに往生際の悪いこったな。えぇ? おい」
刀の柄を握った手に静電気のような刺激を感じる。
ちらりと目を落とすと、刀身に小さな稲妻が走っているのが見えた。
この妖刀を使い、稲妻をまとった剣技を使っていたお祖父の姿が無意識に脳裏をよぎる。
あいつを倒す力を貸してくれ、お祖父よ……!
「来い、魍呀!」
俺は刀を鞘に収め、居合の構えを取った。
何度も目にし、何度となく練習した技だ。
今なら出来る、と不思議な確信があった。
あいつの速さに対抗するにはこれしかない。
「雷速抜刀撃を恐れぬのならば……!」
「まだやる気だってのか? なら望み通りに叩き潰してやる。オレと兄者に刃向かったのがてめぇの運の尽きだぜ!」
魍呀が金棒を振りかぶって飛びかかってくる。
先ほどと変わらぬ神速ぶり。
一瞬後にはすでに目前まで迫り、金棒を振り下ろしていた。
だがそのときには、すでに俺も刀を抜いたあとだった。
鞘の内側から稲妻を放射し、刀を凄まじい勢いで押し出すことにより超神速の居合と可能とする剣技――
それが勇薙流妖刀術・雷速抜刀撃だ。
魍呀の右腕ごと巨大な金棒が宙を舞った。
背後に落下し、地響きを轟かせて、激しく砂埃を巻き起こす。
「な……に……!」
魍呀は呆然と、肘から先がなくなった自身の右腕を見つめていた。
「ぐっ……オオオオオッ……!」
それは悲鳴か雄叫びか。
左手で傷口を押さえてあえぐ。
だが指の間からはおびただしい量の血が滝のように流れ落ちていた。
「貴様に情けは不要!」
俺はトドメを刺すべく飛びかかる。
しかしその瞬間、四方八方から無数の狼たちが俺に飛びかかってきた。
身体中を噛みつかれて動きを封じられる。
魍呀はその隙に背を向け、逃走を始めていた。
「忘れねぇぞ半妖め……改めて他日!」
「待て魍呀!」
奴の神速の足で逃げられたら追いかけようもない。
灰色の毛で覆われた背中はあっという間に見えなくなってしまった。
それを見届けたかのように、俺を押さえ込んでいた狼たちも散り散りになって逃げていく。
「魍呀ぁぁっ!」
激情のままに発した俺の叫びだけが、がらんした町並みに空しく響き渡った。
◆
震える手でなんとか刀を鞘に収めたところで、俺はその場に膝をついた。
荒い呼吸がまったく静まらない。
火あぶりにされたような痛みが全身を蝕む。
狼に噛みつかれた無数の箇所から、とめどなく血が流れているのが自覚できた。
着物はズタズタに千切れ、ほぼ裸のような姿だった。
人間ならとっくに死んでいるような状態だろう。
この妖化した肉体に感謝しなければならない。
このまま横になりたいところだが……まだ倒れるわけにはいかなかった。
「仁士郎っ!」
と、気遣わしげな声を上げながら魅狐が駆け寄ってきた。
「無事……とは言えなさそうじゃが、見事に魍呀を撃退したようじゃな。狼どもも退散していきおったぞ!」
魅狐も魅狐で死闘の跡がうかがえた。
紅い着物はところどころが破れ、濃い血の染みが浮かんでいる。
幸いそれほど深い傷はなさそうだが。
「ああ……一太刀浴びせただけで、逃げられてしまったが……」
「よい、町を守れたのじゃからな。ざまあみろじゃ。怪我の具合はどうじゃ? 酷いのかえ?」
「俺は平気だ。それより、緋澄を早くなんとかしてやらなくては……」
「緋澄……? ど、どこじゃ?」
魅狐は辺りをきょろきょろと見回す。
恐らくは瓦礫の下に埋まってしまったはずだ。
掘り起こしてやらなければならない。
……最悪の事態は、なるべく考えないようにした。
俺は重たい体を引きずるようにして、道端の瓦礫の山まで歩いていく。
白壁や瓦屋根の破片をひとつずつ取り除いていくと、仰向けに地面に埋まった緋澄の姿が少しずつ見えてきた。
しかし彼女は動かない。
おおよそ掘り起こしたところで恐る恐る口元に耳を近づけると、ほんのわずかに弱々しい呼吸音が聞こえた。
「ひ、緋澄や……なんたる……」
魅狐は膝から崩れ落ち、堰を切ったようにほろほろと涙を流した。
「落ち着け……まだ息はある」
だが、息はある、としか言えない状態でもあった。
顔面蒼白。まるで血の気がない。
反対に着物の胴部分は初めからその色だったかのように真っ赤に染まり切っていた。
素人目に見ても瀕死とわかる。
運び出そうと少し動かしただけで、嗚咽のような苦鳴が漏れた。
これは……どうすればいい……?
助けたいという気持ちばかりがはやって頭が働かない。
運び出せないとなると、医者を呼んでくるのが先か……?
「仁士郎、これを呑ませるのじゃ」
魅狐は涙を拭い、袖の下から小さな瓢箪を出して投げ渡した。
そうか、これがあったか。
たしか魅狐の故郷で作られたという御神酒。
俺もこれを呑んですっかり傷が癒えたのだった。
「緋澄、少しでいい、これを呑めるか」
俺は瓢箪をゆっくりと傾けて呑ませてやる。
だが、すべて口の外へこぼれ出てしまった。
「くっ、駄目か……!」
「ならば口で移して呑ませるのはどうじゃ!?」
「よし!」
俺は御神酒を口に含み、緋澄の口へと直接注ぎ込んだ。
「いや、わらわがやろうと思ったのじゃが……まぁよい」
緋澄は苦しそうにしながらも、ごくり、と喉を動かす。
どうにか嚥下してくれたようだった。
「こ、これでいいのか……?」
「うむ……わからぬ」
「おい」
「とはいえ、こやつも鬼の血を引く身。生命力の高さはお墨付きじゃ。良くなることを祈るしかないじゃろ」
「そうだな……」
ふっと意識が遠くなる感覚が襲ってきた。
血を流しすぎたか……。
あるいは、緋澄が生きていてひとまず安心したのか。
どうにか魍呀と狼たちを退けることはできたが、町の被害は甚大なはずだ。
多くの人々が傷付けられ、死者も出ているかもしれない。
壊された家々の持ち主は今日の夜どこで寝ればよいのだろうか。
彼らがいったい何をした。
なんの罪もない人々がなぜこんな目に遭わなければならない。
この報いは必ず受けてもらうぞ魍呀……!
次に相見えたときは決して逃さず討つ。
俺が――この手で。