獣血の魍呀 前
気絶した緋澄は俺がおぶって町まで戻ることにした。
凶悪な妖怪と互角に斬り結んでいたとは思えないほど、背中にのしかかる体は小さく軽く、そして柔らかい。
半人半鬼といえども彼女は間違いなく乙女だと思えた。
体を密着させて匂い袋の甘い芳香を嗅いでいると、首から上が熱くなってくるのは男として当然の反応と言えるだろうか。
「鼻の下が伸びておるぞ」
隣を歩く魅狐が袖で口元を隠して冷ややかな目を向けてきた。
「やはり助兵衛妖怪じゃな」
「……男というのは、多少はそういうところがあるものだ」
お祖父でさえ書斎に大量の春画を隠し持っていたくらいだからな。
しかも発見したのが遺品整理のときだったので、悲しいやら、呆れるやら、嬉しいやら、とても複雑な心境だったのだ。
「多少かのう。よくもぬけぬけと、『俺の剣、今日よりおまえのために振ろう』と気障なことを言ったものじゃな。別の剣を振るわれるとは思ってなかったのじゃ」
その話を今持ち出してくるのか……。
「おまえだって嫌がってはいなかったろう」
「女心のわからんやつじゃな。……あの場の雰囲気に流されただけじゃ。くれぐれも勘違いをするでないぞ、うつけめ」
もう少し勝利の余韻に浸っても良さそうなものだが、やけに辛辣な態度だった。
とはいえ見抜かれた通り、俺が緋澄に鼻の下を伸ばしていたのも事実だ。
妹のことを妙な目で見るなという姉心があるのかもしれないな。
「ん……うぅん……」
と、耳元で吐息が漏れた。
緋澄が目を覚ましたらしい。
さすがに彼女には聞かせたくない話なのか、魅狐はすぐさま口を閉じた。
「ここは……あっ、じ、仁士郎様……!」
俺におぶられているということに気付き、気恥ずかしそうに体をひねる。
「も、もう大丈夫ですから……おろしてください……!」
「いいや緋澄よ、もうしばらくそのままにしてるのじゃ」
と拒否したのは意外にも魅狐だった。
前方を指差す。
「仁士郎、あの茶屋まで運ぶのじゃ。そこでしばし休んでいくとするのじゃ」
街道が交わるところに一軒の掛け茶屋が建っている。
もう町の目の前なので、来たときはそのまま通り過ぎたのだが。
「姉様、そんな……」
「ああ。そうしたほうがいい」
なんだかんだと言いつつも、緋澄の体を第一に考えているのだ。
俺は素直に頷いてそのまま歩を進めた。
「申し訳ありません、また気を失ってしまいましたか……」
背中越しに緋澄がもじもじとするのがわかった。
「それに、また仁士郎様に助けられてしまったようで」
「いや、助けられたのは俺のほうだ。緋澄が頑張ってくれなければ、あの妖怪に勝つことはできなかった」
無論、魅狐もだ。
三人で力を合わせた故の勝利と言えるだろう。
「決してそんなことは」
「目を見張るような身のこなしだった。よほど鍛錬を積んだのだろうな」
「あれは……鬼血活性を使いました」
「鬼血活性……?」
「私の体には人の血と鬼の血が半分ずつ流れているので、鬼の血を濃くすることによって一時的に身体能力を高めることができるのです」
「気を失ってしまうのはそれの使いすぎかもしれんの。長くやっていると疲れてしまうのじゃ」
そういえば魅狐も似たような芸当をしていた気がする。
「そうかもしれませんね。農作業をするときなどにも便利なのでよく使いますし……」
「鬼の王の血が百姓仕事に利用されとるとは、父君も草葉の陰で泣いておろうて」
半人半鬼と半鬼半妖。
彼女たちは異なる血を共存させて上手い具合に使い分けている。
「俺も、その技を使えないだろうか?」
なら半人半妖である俺も理屈の上では可能なはずだ。
妖の能力を強めることが出来るなら、先ほどみたいな強敵とも渡り合えるようになるかもしれない。
「助兵衛妖怪の血を濃くしたところで助兵衛心が増すだけなのじゃ」
しかし魅狐に一言のもと斬り捨てられてしまった。
「仁士郎様は助兵衛なのですか?」
そんな真面目な口調で尋ねられても困るが。
「うむ。おぬしと会う少し前にも、わらわの尻を触らせてくれと道の真ん中で土下座しておったくらいじゃからな」
事実を酷く歪曲された気がする。
「えぇ……?」
緋澄が露骨に体を離したのが感じられた。
一夜きりのことに端を発してこうも執拗に責められることになるとは……。
剣の道同様、夜這いの道もまた奥深しといったところだろうか。
◆
茶屋の外に置かれた長椅子に魅狐と緋澄が並んで座る。
俺はその対面の椅子に腰を下ろした。
「大鎌切を倒したことを伝えたら、町の人たちもきっと喜ぶと思います」
なにより緋澄が嬉しそうにしているので説得力があった。
やがて、注文したお茶と串団子が運ばれてくる。
「おおぅっ、この草団子は絶品中の絶品じゃな!」
一口食べて、魅狐が至福そうに顔をほころばせた。
「そんなに美味しいですか?」
「うむ、おぬしも食べてみるのじゃ。ほれ、口を開けい」
「あーん」
大きく開けた口へ、魅狐が草団子は食べさせてやる。
咀嚼する緋澄の顔がみるみるうちにとろけていった。
「わぁ……本当ですね……。こんなに美味しいお団子初めて食べました」
そんなになのか……?
俺は自分の手元にある胡麻団子に目を落とす。
たしかに美味いは美味いが、そこまでではない気がした。
「そっちのみたらし団子も気になるのじゃ」
「じゃあお返しにどうぞ。はい、あーん」
「あーん」
今度は緋澄が自分の団子を魅狐に食べさせる。
もぐもぐと味わったあと、魅狐はなにやら勝ち誇った顔をした。
「いやいや、やはりこっちの草団子にはかなわぬな」
「そうですね、私もそれを注文すればよかったです」
「ならふたりで分け合うのじゃ」
「えっ、いいのですか? ありがとうございます、姉様」
団子を分け合って微笑み合う姉妹。
仲良きことは美しきかな。
和む光景だった。
そしてそこまで言われると、俺もその団子の味が気になってくる。
「魅狐、俺も草団子が食いたくなったのだが」
「そのへんの草でも食っとれ」
団子という言葉が聞こえなかったのか、おまえは。
「姉様、そんな言い方ないです」
すかさず緋澄が助け舟を出してくれる。
「仁士郎様、私が生でも食べられる草を教えてあげますね」
いや敵の援軍だった。
団子という言葉が聞こえなかったのか、おまえたちは……。
結局俺には一口も分けてもらえなかった。
◆
団子を食べ終え、お茶を飲み終え、のどかな時間が訪れる。
あとは町に戻って皆に大鎌切を倒したことを報せるだけだ。
町の人たちは安心してあの峠を通れるようになる。
そして緋澄の気掛かりもなくなり、旅に同行してもらえるのだ。
魅狐は白くて太い尾の毛繕いを始めていた。
まだ日が高いのでそれほど急ぐ必要もないだろう。
俺も気を休めていくことにした。
緋澄は座ったまま刀を抜いて、青白い刃をじっくりと眺めている。
近くを通りかかった店員がその光景を見てぎょっとした。
こんな店先で刀を抜いたら強盗と思われても仕方ないだろう。
しかし緋澄はそんなことなど意にも介してない様子だった。
「……緋澄」
「はい?」
俺の呼びかけに、澄んだ緋色の瞳がこちらを向く。
「気になっていたのだが……それは、もしや妖刀ではないか?」
「その通りです」
緋澄は俺にも見えるように刀を少し高く持ち上げた。
「天風神雲切。お城に保管されていたものでしたが、十五歳になったときに頂きました」
成人の祝いに刀を貰う姫様とは彼女くらいのものではないだろうか。
「妖刀とな? 噂には聞いたことあるのじゃ」
魅狐が毛繕いをしながら興味を示した。
「ええ。人が鬼や妖怪と戦うために作り出した武器で、人であっても、妖術のような力を使うことができる代物です」
「ふむ」
「ちなみに私の持っている刀は風を操る力を秘めています」
間合いの外から大鎌切の腕を切断せしめたのもその能力を利用した技だったのだろう。
「そんな便利なものならわらわも一本くらい持っておこうかのう」
「妖刀は人間にしか使いこなせないものなので、残念ながら姉様にとっては普通の刀と変わらないかと……」
「なんじゃ、つまらん」
鬼や妖怪と戦うための武器であるため、奴らに逆利用されないよう作られているのは当然だろうか。
半人半鬼である緋澄が使えているあたりその判定はわりと広そうだが。
「ところで、仁士郎様の持っている刀も妖刀ですよね?」
「ああ」
俺も刀を抜いて、ふたりに見えるように 高く掲げる。
店員がこちらを二度見した。
「八雷神空断。お祖父の形見の刀だ。稲妻を操る能力を秘めているはずなのだが……俺には使うことができないようだ」
この刀を持つようになっておよそ一年。
お祖父がやっていた技を見様見真似で何度も練習してみたのだが、一度として刀が俺に応えてくれることはなかった。
「まるっきり才能がないのかもしれんな」
「ひょっとして……」
緋澄が自分の刀を鞘に納める。
「まだ人刃一体を済ませていないのでは?」
人刃一体……?
「なんだ、それは?」
「妖刀に自分の血を吸い込ませる儀式です。そうすることによって刀が自分の体の一部となり、呼びかけに応えてくれるようになるのです」
「初耳だ……無論やったこともない」
「でしたら今やってしまいましょう。血は少量で構いませんので」
緋澄に言われた通りにやってみることにした。
人差し指を刃に置き、少しだけ滑らせる……。
まずい、切りすぎた!
指先から血がぼたぼたと流れ出る。
刃を伝った血が地面に落ちる……と思いきや、まるで刀身が紙か布で出来ているかのように、俺の血をすべて吸い込んでいった。
「仁士郎様、指を」
懐から包帯を取り出した緋澄が切ったところに巻きつけてくれる。
「今のでいいのか?」
「はい」
ずいぶんあっさりしたものだった。
「あとは鍛錬次第です」
青白い刀身をまじまじと眺めてみる。
これで俺もお祖父のような、稲妻をまとった技を使えるようになるのだろうか……。
と、そんなときだった。
「緋澄様っ! 緋澄様ぁぁっ!」
街道の先から、なにやら切羽詰まった声を上げた男性が走ってきた。
あっちは城下町がある方角……。
男性は身なりからして城侍のようだ。
「なんじゃ?」
「よ、よかった、緋澄様……! はぁ、はぁ……行き違いにならずに……!」
店先の長椅子に座る俺たちの前までやってきて、膝に手を置き肩で息をする。
かなり焦っている様子だった。
「お茶、どうぞ」
緋澄が自分の飲みかけの湯呑みを渡す。
「かたじけない……!」
男性はそれを一気に飲み干した。
「緋澄様、町には戻らず、このままどこか遠くへお逃げくだされ……!」
喉を潤して少しだけ落ち着いたようだった。
「どういうことですか……? なにかあったのですか?」
「突如、狼の大群を連れた鬼がやってきて、町で暴れているのです!」
「えっ……!」
「その鬼はどうやら緋澄様を捜している様子。見つかったらどんな目に遭わされるかわかりませぬ。どうかお逃げくだされ」
緋澄を捜している鬼……?
魎鉄から送られてきた刺客か?
「姉様……」
緋澄が魅狐に振り向く。
その顔はひどく青ざめていた。
「うむ……」
魅狐も苦々しい顔を浮かべて頷く。
ふたりのあいだでなにか意思の疎通が行われたということがわかった。
「すみません。お気遣いくださって申し訳ありませんが、私は逆に、急いで町に戻らなくてはなりません」
「ひ、緋澄様……!」
「あやつを野放しにしておいたら町ごと破壊されかねんのじゃ。人間では束になっても敵わぬ、わらわたちが行ってなんとかせねばなるまい」
「ふたりとも、その鬼に心当たりがあるのか?」
「狼を従わせた鬼……そんなやつは魍呀しかおらんのじゃ」
「魍呀……」
聞いたことがある名だった。
それは、たしか……。
「五兄弟が次兄。鬼の王と獣の妻との間に産まれし子……獣王子魍呀じゃ」




