黄昏時の妖狐 前
木立の向こうに鬼の背中を見つけ、俺は刀を抜いた。
「そこの鬼よ、俺の問いに答えろ!」
うずくまっている鬼の首筋に切っ先を突きつける。
鬼の足元には山菜の詰まった籠と生々しい人間の肉片が散乱していた。
赤銅色の肌。人間よりふた回りは大きい体躯。
ひたいに一本の角を生やした鬼がゆっくりと振り向く。
耳まで避けた大きな口は真新しい血で真っ赤に染まっていた。
「五本角の鬼を捜している。心当たりがあるならすべて話せ」
「五本角……だと……?」
鬼の片眉がぴくりと跳ね上がったのを俺は見逃さなかった。
心当たりのある顔だ。
お祖父を殺した五本角の鬼を探し始めて約一年。
旅の途中に立ち寄った麓の茶屋で、山中に鬼を見たという噂を聞き、すぐさまこの山を登ってきた。
そして山道を半刻ほど歩いた頃――不意に女の悲鳴が聞こえたので駆けつけてみたら、こうして一匹の鬼を見つけたのだった。
「人間が魎鉄様に何用だ?」
こいつは一本角……目当ての鬼ではなかった。
悲鳴の主も見つけたときには手遅れであった。
散々な結果だが、思わぬ手掛かりを得ることはできたようだった。
「魎鉄……! それが奴の名か!」
「いけねぇ」
鬼は失言に気付いたらしく眉間に皺を寄せた。
「そいつはどこにいる!」
「キシャシャ……これ以上は何も言えぬ。オレごときがあの方の名を口にするなど嗚呼、恐れ多し、恐れ多し」
「ならばもう貴様に用は無い!」
人を食らう鬼に情けは不要。
俺はひと思いに刀を振り抜いた。
だが、まるで鉄を叩いたような手応え!
驚くべきことに、鬼の首元には切り傷ひとつついていなかった。
「何……!」
「愚かな奴め」
鬼の拳が腹に打ち込まれた。
恐ろしい力で枯葉のように吹き飛ばされ、大木で背中を打つ。
「かはっ……!」
膝から崩れ落ちる。
喉の奥から血が溢れ出た。
これが鬼か……!
まともに相対するのは初めてだが、その強さは想像以上だった。
勝てるのか……?
湧き出した不安を一瞬で振り払う。
相手がどんな者であろうとも、挑むのを恐れるのは男のすることではない。
俺を奮い立たせてくれるのはいつだってお祖父の教えだった。
「俺は……決めたのだ!」
全身に精一杯の力を込めて立ち上がり、刀を正面に構え直す。
「この刀で、あの五本角の鬼を斬るのだと!」
胸中に渦巻いているのは痛みと恐怖を凌駕するほどの激情だ。
そのためにすべてを捨てて旅立ったのだから。
「この決意、誰にも阻ません!」
「ムッ……キサマ、妖刀使いか」
俺の刀をまじまじと眺め、鬼はわずかに後ずさった。
「ならば近寄るのも危険か……破ッ!」
鬼が片手から赤い光を放った。
矢のように飛んだそれが俺の右手に当たる。
すると甲に、芋虫ほどの大きさの痣が表れた。
なんとその痣が、まるで本物の芋虫のようにもぞもぞと動き出し、腕を登り始めのだった。
「なんだ、これは……!」
左手で振り払ったり引っ掻いたりしてみても、やはり痣は痣のようで、まるで意味がない。
「毒虫の呪術よ……。その毒虫が心の臓まで達したとき、キサマは死ぬ!」
「なんだと……!」
鬼はそのような芸当も出来るのか。
「キシャシャ、鬼の強さは角の数。一本角のオレに勝てぬ者が五本角のあの方を斬ろうなどと笑止千万! 未熟にあえいで朽ち果てろ!」
鬼は嘲笑いながら山頂の方角へと走り去っていった。
「逃がすか!」
すかさず走って追いかける。
だが痛みのせいか呪術のせいか体が鉛のように重かった。
袖をめくると、芋虫型の痣は肘まで登ってきていた。
◆
鬼を見つけられないまま山頂の一本松までたどり着いたところで、俺はついに力尽きて膝をついた。
さながら本物の毒が回ってきたかのように、手足は痺れてほとんど力が入らなくなっている。
「ここまでか……!」
痣の虫は肩を過ぎて鎖骨を通り越そうとしていた。
心臓に近付くたびに内側から斬られるような痛みが増している。
痣の通り道となった右腕は紫色に変色し、もはや指一本動せない。
だが体の痛みよりも心の痛みのほうが何倍も強かった。
仇を討てずにここで死ぬのか……!
悔しさと無力さに視界が滲む。
目頭から滴った雫が地面を濡らした。
「すまん……お祖父……」
松の下で仰向けに倒れる。
視界に映るのは枝葉と雲ひとつない青空だけ。
俺も死んだらこの空の上に行くのだろうか……。
とんだ犬死にだ。
お祖父に合わせる顔がない。
こんな毒で死ぬくらいなら、いっそ腹でも切ってやりたい気分だった。
「そこは、わらわが先に見つけた寝床なんじゃがなあ」
いよいよ幻聴まで聞こえるようになってきたようだ……。
「あとから来て横取りしていくとはさすがに不躾というものなのじゃ。いつぞやの礼では済まされぬぞ」
不意に……視界の中に、かくも美しい娘の顔が映り込んだ。
年の頃は俺と同じくらいの、十七か十八ほど。
長い銀髪。切れ長の目に黄金色の瞳。
作り物めいた白い肌。
どこかで会った気もするが、どこでだったかは思い出せない。
いや、それよりもだ……。
「近くに鬼がいるかもしれない……早く山を下りろ……!」
娘は忠告をまるっきり無視し、ずいと俺の胸元を覗き込んだ。
「ふむ……毒虫の呪術か。だいぶ進行しておるようじゃな」
「し、知っているのか……! 治す方法は?」
「簡単なのじゃ。術者を殺せばよい」
今の俺には決して簡単ではなかった。
痣の虫が心臓に達するまでもう幾ばくも無いだろう。
それまでに先ほどの鬼を見つけ出すのは不可能だ。
「他の方法は無いのか……?」
「さて、どうじゃったかのう。ここまで毒が進行しておるとのう……」
娘は腕を組んで首をひねる。
しかし、あまり真剣に考えているようには見えなかった。
「いや……それだけわかれば、充分だ」
俺は鈍い体を必死に動かして、うつ伏せになり、左腕だけで這っていく。
「方法があるならば……たとえ時間が足りなかろうとも……満足に動けずとも……死の間際まで、あがいてやる……!」
みっともないと笑いたくば笑えばいい。
武士は生きるべきときには生き、死すべきときには死す覚悟を持たなければならない。
今は死すときではない。
ならば、恥や外聞を捨ててでも生きねばならないのだ。
「五本角の鬼……魎鉄を斬るまで……俺は死ぬわけにはいかないのだ……!」
「ほう……?」
と、娘がなにやら興味深げな声を漏らした気がした。
「そこまでの覚悟があるのならば……おぬしが助かる方法、無いことは無いのじゃ」
「ほ、本当か……! それは?」
「所詮人間しか殺せぬ弱い毒よ。わらわが妖化の術で、おぬしを『妖』に変えてやろう。そうすればそんな毒なぞ蚊に刺されたようなものじゃ」
「妖……?」
「妖怪と言ったほうが人間にはわかりやすいかの」
いったい何を言っているのか。
人間を妖怪に変えるというのか?
「妖怪になったら……俺はどうなる……?」
「それはおぬし次第じゃな。あいにく人間にはこの術をかけたことがないので、わらわにも結果がどうなるのかわからんのじゃ」
娘はおどけたように肩をすくめる。
「どのような形であれ、肉体と精神が妖のものへと変わるのは間違いないのじゃが」
「肉体と精神……?」
「かつておぬしが夜の山中で倒したあのやかましい妖怪は鵺と言って、野良猫にこの術をかけたものじゃ。ずいぶんな変わり様だったじゃろう」
あのときの、夜鳴き妖怪……?
なぜ彼女がそんなことを知っている……?
やはり幻聴なのか、これは……?
だが今は、この幻聴にすらすがってみたい気分になっていた。
左腕も動かなくなった。
もはや芋虫のように這うことすらできない。
「……わかった、やってくれ」
幻聴だったとしても……妖怪になるというのは正直言って恐ろしい。
猫が、あんな虎とも猿ともわからぬような化け物になってしまうのだ。
だが俺にとっては仇を討てずに死ぬことのほうが恐ろしかった。
俺は仇討ちのためにすべてを捨てて旅に出た。
ならば今こそ人間であることをも捨ててみせよう。
そして生きる。
生きてさえいれば、また目標に向かって歩き出すことができるのだから。
痣の虫が右の胸に入り込む。
釘を百本ほど肺に放り込まれたような激痛が体を蝕んだ。
「早く……やるならやってくれ……頼む……!」
意識が薄れ、視界が白く染まる。
死が覆い被さる感覚を肌で感じられた。
「よかろうなのじゃ」
娘が鷹揚に頷き、両手を開いて俺へと掲げる。
「ただし……無事に生き長らえた暁には、わらわの頼みも聞いてもらうのじゃ。よいな?」