48.もうひとつの道 その2
京都駅に着き、神戸方面に向かう電車の時刻を確かめる。
今は七時前だ。もうすぐ網干行きが来る。
もしくは十五分後に播州赤穂行がある。
どちらも乗り換えなしに、三宮まで一直線だ。
大勢の人々が、時刻表の前で立ち止まる澄香のそばを行き交い、背中や腕に誰かの身体の一部が当たった。
すみませんと大荷物を抱えた年配の女性が澄香に謝り、いいえどういたしましてと軽く会釈をして、澄香が顔を上げた時だった。
タクシーを降りた方向から誰かが駆け寄って来るのだ。
それも、回りの注目を一斉に浴びるほど大きく手を振り、池坂ーーと大声で叫びながら、その人がやって来た……。
「池坂! やっぱり、おまえだったんだ。後姿がよく似てるなと思って、追いかけてきた。ひょっとして俺達、見えない糸で繋がってるんじゃないのか? 」
「先輩……」
澄香の肩にぽんと手を載せて、がはははと豪快に笑う、先日会ったばかりのその人と目が合ったとたん、澄香はその場で泣き崩れてしまった。
「ほら。もう泣くなよ。何があったか知らないが、おまえらしくないよな」
カウンターに並んで座っている福永は、ポケットから出した広告の入ったティッシュを澄香のコーヒーカップの横に置いた。
路上で配っていたものだろう。
最新機種設置、ドリンク飲み放題、とカラオケ店の宣伝文句が、ところ狭しと躍る。
ありがたくそれを受け取ると、一枚取り出し、流れる涙をふき取った。
そしてもう一枚。今度は遠慮がちに鼻をかんだ。
「なあ、どうしたんだよ。まあ、言わなくてもわかるけどな。京都で、それも土曜の夜に一人でいるってことは……。理由はひとつだろ? この前の男と、けんかか? 」
澄香は、真っ赤な目をしてこくりと頷いた。
「はん、どうせ、そんなところだろうな。で、あの男と別れるのか? 」
「えっ? 」
あまりにもストレートな一言に、澄香はドキッとした後、凍り付いてしまった。
よく考えてみると、さっき遭遇した出来事の先には、そういう選択もあり得るのだ。
ためらいがちに福永の顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「あははは。そうか。別れるのか。あいつとは、もう、長いのか? 」
「いえ、そ、その、まだ、二週間……」
「二週間? なんだよ、それ。相手の名前を、やっと憶えたところ、くらいなもんじゃないか。でも、まてよ。そんな風には見えなかったけどな。あいつ、おまえの全てを知ってるような目をしてたけど。本当に二週間なのか? 」
福永は腕を組み、首を捻っている。
「あっ、いや、正式に付き合ったのは二週間ですけど。その……。お互いに、八年間、思い合っていたみたいで……」
「はあ? じゃあ、何か。好きだと言えずに八年間思い続けて、やっと実った恋とでも? 」
「……はい」
どうもこの人の前に出ると、調子が狂ってしまう。
すべてを見透かされているような気がして、はらはらするのだ。
「そうか……。あいつが俺の恋敵だったんだな。あいつのせいで、俺の青春は灰色に染まったってわけだ。あはははは! 」
「せ、先輩。ごめんなさい。あたし、先輩には、とてもひどいことしたと思っています」
「そうだよな。なら、今から罪滅ぼしでもしてもらおうかな? 」
「罪滅ぼし、ですか? 」
「そうだ。俺たちは、見えない糸結ばれているんだ。これだけ多くの人がやってくる街で、二度もばったり出会えるなんて、そうそうないことだよ。だから、罪滅ぼし」
福永の顔が澄香の前に近付いてくる。
「は、はい」
澄香は身構えた。
「池坂。そんなに怯えるなよ。おまえを、襲ったりするわけないだろ? じゃあ、まず。けんかの理由を言ってみ。あいつがどれだけ悪人か、俺が裁いてさしあげよう」
「そ、そんな、悪人だなんて」
「おいおい。別れようって相手をかばうなんて、未練たらたらだな」
「あっ、はい……」
「そんなにあっさり認められても。まあいい。とにかく、理由を言ってみろよ」
「そ、それより先輩。仕事の方はいいんですか? あたしはもう、大丈夫ですから。あの、いろいろと……ありがとうございました」
澄香は椅子を降りて、福永にぺこりと頭を下げた。
あれだけ泣けば、もう十分だ。
「仕事か? それなら心配するな。今夜から五日間休暇をもらったんだ。明日、島根に帰る。そんなことより、けんかの理由を早く言えよ」
「そ、それは……」
「浮気か? 」
白い歯をのぞかせてにっと笑うこの人を、敵に回すのはもう辞めようと思った。
昔からそうなのだ。一瞬にして、全ての状況を把握してしまう福永には、誰も太刀打ちできない。
澄香は今日あったことを、ひとつずつ噛み砕くように、福永にすべて話した。
付き合うようになったきっかけも、片桐の仕打ちも。
話し終わった時には、止まっていた涙がまた零れ落ちる。
ティッシュの包みが底をつき、広告の紙だけになる。
バックを開いて、ごそごそとハンカチを取り出した。
海の見えるカフェで宏彦のプロポーズを受けた時涙を拭ったあのハンカチが、優しい柔軟剤の香りと共に再び澄香の瞼を往復する。
「なあ、池坂」
澄香は、真横で覗き込む福永と目を合わせた。
「一緒に、島根に帰らないか? 」