46.しょっぱい水溜り その3
「それは、こっちのせりふ。宏彦は、あなたみたいな浮ついた女に本気になる人じゃないわ。それも、たったの二週間で、彼女気取りで大きな顔をされたんじゃ、こっちだってやってられない。あたしたちにはね、二人にしかわからないモノがあるの。親の都合で外国暮らしが長くて、向こうでなかなか馴染めなかった。こっちに帰ってきても、まともに付き合ってくれる友達なんていなくて……。そんなあたしのことを理解してくれるのは、彼だけなの。彼を理解してあげられるのも、あたし……だけ」
片桐の声も震えていた。
異国暮らしでの苦悩は、きっと本当のことなのだろう。
澄香にとって宏彦がすべてであるように、片桐にとっても、理解し合える彼がすべてなのだ。
そして、そんな彼女を宏彦は今でも受け入れている。
現実を目の当たりにした澄香は、愕然とした面持ちで立ちすくむ。
信じていたのに。
宏彦のことを心から信じて、恋の成就を喜び、かみしめていたのに。
もう、何も考えたくなかった。
澄香の目の前で勝ち誇った眼差しを向ける片桐の姿も、そんな彼女に心を許す宏彦のことも、すべて、澄香の脳裏から消し去りたかった。
「あら、池坂さん。どうかした? あたし、言いすぎたかしら……」
「あの、あたし……いえ、何でもないです。そうだ、この後、予定があるので……」
「まあ、そうなの? 残念だわ。せっかくこうやって何年ぶりかに会えたのに。あたしの言い分も理解してもらえたのかしら? 」
片桐の言い分など、理解したくはない。
けれどそれが事実だと言うのなら、澄香がここにいる理由は何もない。
もちろん、この後、予定などあるわけもなく。
この場から逃れるための思いつきでしかない。
「片桐さん。あたし、そろそろ行かなくちゃ。宏彦……あ、いや、加賀屋君によろしくお伝え下さい、それでは……」
澄香は片桐の横を通り抜けて、階段に向かおうとした。
「池坂さん、ちょっと待って。それじゃあ、あたしが無理やりあなたを追い返したみたいじゃない。ちゃんと自分でわけを……」
すると部屋のドアが開き、本を手にした宏彦が出てきた。
「これだろ? 」
本を片桐の顔の前にかざした後、彼女の手にそっけなく載せる。
「あ、ああ。そうね。これだわ。ねえ、宏彦。この人、帰るって言ってるけど」
片桐が甘えたような目をして宏彦を見上げて言った。
「えっ? どういうことだ? 」
宏彦がはっとした顔をして、澄香を見た。
「ごめんなさい。あたし、これからちょっと約束があって。その……。今朝、今日は会えないって電話もらった後、マキと連絡取ったの。そ、その、マキの職場って中ノ島でしょ? 今日もどこかの結婚式場で仕事だって言ってたから、だから、梅田で会う約束をしてて……」
ありそうなことを、さも真実のように組み立てていく。
「それ、本当か? こいつに何か言われたんじゃないのか? 」
宏彦が片桐を睨みつけながら言った。
「やだ。なんであたしのせい? あたしはただ、このテキストのことを……話しただけ、なの、に……」
尚も宏彦に睨まれ続けている片桐が、みるみる勢いを失くす。
「宏彦、違うの。本当に、マキと約束があるから……。今日は勝手なことしてごめんね。あなたの都合も考えずに、こんなところまで来て、悪かったと思ってる。片桐さんとも久しぶりだったんでしょ? なのに、あたしったら……」
「澄香、何を言ってるんだ。おまえは何も悪くないよ。俺は嬉しかった。でも、その約束、本当なのか? 」
「うん、本当だよ。嘘じゃないってば」
「そうか……。じゃあ、駅まで送るよ」
宏彦が澄香と並んで歩き出そうとする。
「ううん。いいの。あたしは大丈夫だから。片桐さんが一人になってしまう」
「澄香だって、一人になってしまうだろ? 」
「だから、あたしは大丈夫だってば。それじゃあ……」
澄香が、怪訝そうな顔をする宏彦をよそに、その場から駆け出した。
「おい、澄香。なら、明日は? 会えるんだろ? 」
「う、うん……」
階段に差し掛かったところで宏彦に背を向けたまま、あいまいに頷く。
「あっ、いけない。時間が……。マキを待たせちゃ悪いから。それじゃあ。いろいろ、ありがと……」
澄香は振り返らなかった。
宏彦に自分を追って欲しいとも思わなかった。
今はただ、一分でも一秒でも早く、ここから立ち去りたかっただけだ。
階段を駆け下り大通りに出ると、ライトをつけた車が次々と澄香の前を通り過ぎていく。
手を上げて合図を送り、すぐに停まったタクシーに乗り込んだ。
京都駅までお願いしますと告げてドアがパタンと閉まった時、プレゼントの入った紙袋を廊下に置き忘れて来たことに気付く。
何も持っていない両手を膝の上に広げて、じっと手のひらを見つめた。
北海道から帰って来たあの日、この手を握り締めてくれた宏彦は、また澄香の前から遠ざかっていく。
だんだんと指の境界線がぼやけてきて、目に映る世界が滲んできた。
ぽたり、ぽたりと、涙の粒が手のひらに転がり落ちて、小さな水溜りを作る。
とてもしょっぱい水溜りだ。
夢のようだった二週間。
でもやっぱり夢だった二週間。
澄香は左右の手のひらをピタッと合わせて、涙と宏彦への想いを、そっとその中に閉じ込めた。