45.しょっぱい水溜り その2
「違ったんだ……。翔紀に振られたら、今度は宏彦なの? ホントにあきれた人。男を手玉にとって、そんなに楽しい? それって、かなり都合よすぎると思うんだけど。宏彦が、どれだけあなたに振り回されていたか、池坂さんにわかる? まさか宏彦の失恋した人ってのがあなただったなんて。ほんと、信じられない。あなた、昔から、どれだけ男に媚売ってたの? 」
「そんな、媚だなんて……。違います。あたしは、木戸君とは、何も……」
「何も? よくもそんなことが言えるわね? 宏彦は騙せても、あたしはその手にはのらないわ。翔紀は真剣だったのよ。なのに今になって、関係ないとか、全く話にならないわね。男をたぶらかすような人に、宏彦のそばにいて欲しくないわ。今日だって、この後……」
片桐の口元が、ぬらっと光る。
やっぱりショップの話など、少しもありはしないのだ。
彼女は今でも宏彦のことが好きなのだろうか。
「この後、宏彦と二人で過ごす予定だったの。彼、あなたとの約束のことなんて、何も言ってなかったし。そうそう、立ち入ったことで悪いんだけど。宏彦ったら、あなたに合鍵も渡してないんだってね」
「え、ええ……」
片桐の攻撃的な鋭い視線が、澄香にぐさりと突き刺さる。
合鍵のことなど考えてもみなかった。
まだ付き合い始めて日が浅いのもあって、そんな話になったことはない。
たとえ合鍵をもらったとしても、休日にしか会えないのだ。
今日みたいなことはもう二度とないだろうし、使うチャンスはほとんどないと思う。
そんなことまで宏彦が片桐に話していたということが、澄香にはショックだった。
それに、仕事だから今日は会えないと言ったことも、彼女と会うための言い訳だったとしたら……。
「こんなところで待ちぼうけって、あなたもとんだ災難だったわね。それもそんな薄着で。寒かったんじゃないの? 」
「あ……」
澄香は視線を下げ、自分の服装を改めて見てみた。
「いくら昼間は暖かくても、そんなペラペラの春物のワンピ。見てるだけでこっちが震えちゃいそうだわ。よほど浮かれてたのね? 言っとくけど、宏彦はそういうの、好みじゃないから」
「はい……」
辛らつな言葉の応酬に、澄香の思考はすでに機能しなくなっていた。
言い返す気力も全くない。
すぐそばで話している片桐の声が、どこか遠くの方から聞こえる。
日中の春の陽射しが嘘のように、薄暗い廊下に冷たい北風が吹きぬける。
羽織っているだけの薄手のコートの下で、淡いブルーのワンピースの裾が物悲しげに夜風に揺れた。
「あたしも宏彦も仕事が忙しいでしょ? なかなか会えないんだけど。でもね、久しぶりに会っても、そんなブランクなんてちっとも感じないくらい、すぐに昔みたいに打ち解けあえるの。あたしには、やっぱり宏彦しかいないって、やっとわかった。彼もきっと同じよ。だからさっき、あたしのことをあなたに隠そうとしたの。その辺のところ、わかってあげてよね。あたしと宏彦の絆は、誰にも壊せやしないの」
「そ、そんな……」
「ふふふ、その証拠に宏彦ったら、まだあたしの荷物の一部を大切に持っててくれて。今日はちょっとそれが必要になって、取りに来たってわけ。あたしと彼の思い出の本なんだ……」
「荷物の一部……。思い出の本って、それって……」
心臓がバクバクと鳴り響く。
片桐の一言一言が、澄香の心を崩壊させていくのがわかった。
「あら、いやだ。あなた、何も聞いてないの? あたしたち、東京ではお互いに助け合って暮してたの。共有してたものも多かった」
「そんな……。ま、まさか、一緒に暮していたとか……」
澄香は、宏彦の過去は何も聞いていない。
ただ、自分のことをずっと想っていてくれたという彼の言葉だけが彼女の知りうるすべてだったのだ。
別に過去の女性関係を咎めようとは思わない。
でも、その気持をまだどこかで引きずっているのなら。
そして、その相手が片桐であるというのなら……。
澄香の身体が小刻みに震えだす。
薄っすらと氷のような笑みまで浮かべる片桐を前になす術もない。
「あたしと宏彦が同棲してたとでも思った? ふふふ。さーあ、どうだったかしら。でも、あなたの名前は一度だって彼の口から聞いたことなんてない。彼なりに、あたしに気遣ってくれてたのかな? あら、池坂さん。寒いの? 震えているわよ。それとも、あたしの話に驚いちゃった? 」
「片桐さん。あたし……」
「池坂さん。あなたがどうやって宏彦に取り入ったのかは知らないけど。バレンタインデーからまだ二週間かそれくらいでしょ? 今回のことは、彼のちょっとした出来心だと思って、勘弁してあげるつもり」
「えっ? ど、どうしてそんなことまで、片桐さんが知ってるんですか? 」
この人は、いったいどこまで実情を知っているのだろう。
宏彦と澄香の二人だけの、幸せな人生のスタート地点であるはずのあの日のことを、片桐は、薄笑いを浮かべながら、彼の出来心だったと言ってのける。
「もちろん、宏彦が言ったのよ。バレンタインデーに、彼が思わせぶりな態度を取ったってね。その相手が、まさか、あなただっただなんて……」
「思わせぶり? 宏彦は、そんなことする人じゃないです。宏彦は、宏彦は……」
本当に宏彦がそこまで言ったのだろうか。
絶対にそんなことはないと、澄香は彼のことをそれでもまだ信じていたかった。