43.知っている その2
ジャケットの下のスーツに頭をつけて、宏彦のぬくもりを確かめる。
資料を待っている会社の人に、少しだけ時間をちょうだいねと心の中で願いながら。
「ねえ、宏彦。朝、電話をもらった時、あたしがどれだけショックを受けたかわかる? 」
澄香は抱きついたまま、宏彦を少し見上げて、言った。
「ああ……」
「でもね、仕事なんだもの。わがまま言って、あなたを困らせるわけにいかないし」
「うん……」
「午前中は母に付き合って、日用品の買い物に出かけてたの。その時にね、偶然にも宏彦のお父さんに会ったんだ。うちと同じ洗剤とペーパー類をカートに山盛り買ってたよ」
「ん……」
「それでね、今夜はうちに食事に来ないかいって、誘ってもらったんだけど……。お父さんがおっしゃるには、あたしが行けば、きっと宏彦も帰ってくるだろうからって。お父さん、あなたがほとんど神戸に帰ってこないって、とても寂しそうだった……」
「うん……」
「で、宏彦は今日は仕事があるみたいだからって、お父さんに伝えて、お断りしたんだけど。なんだか申し訳なくて。ねえねえ、週末ごとに神戸に帰るのは無理なの? 」
「うーん。そうだな。無理ではないけど。まあ、澄香にも会えるし、これからは出来る限り帰るようにするよ」
「うん。そうしてもらえると、あたしも嬉しい。今度宏彦が帰って来る時は、是非、加賀屋さんちにおじゃまさせてもらうね」
「ああ……」
両サイドにぶら下がったままだった宏彦の腕が、ようやく澄香の背中に回り、ぎゅっと抱きしめられる。
ただそれだけのことで、ひとりぼっちで待っていたついさっきまでの途方もなく長い二時間の時すらも、瞬く間に忘れ去ってしまうのだ。
心の中が宏彦のぬくもりで満たされていく。
ここに来て本当によかったと思いながら、宏彦の香りを胸いっぱいに吸い込む。
そして彼の身体から腕を解こうとしたのだが。
「ひろひこ……」
澄香は、突然宏彦の背後から聞こえてきたその声に、はっと顔を上げる。
そして彼の目を見て、今のは何? と訊いた。
宏彦の顔がみるみる強張っていく。
澄香を抱きしめていた腕の力が緩むと同時に、彼が振り返った。
「宏彦? 」
その人が驚いたように手を口元にあて、立ち止まる。
「あ、ああ……。ご、ごめんなさい。カノジョ、いたんだ。あんまり遅いから、どうしたのかなって……思って」
すらりと背の高い女性が、澄香を見て、ぎこちなく微笑む。
廊下の薄暗い灯りの下でも、その人が類まれな美しい人であるのが見て取れる。
この人が、宏彦が言っていた会社の人なのだろうか?
なかなか姿を現さない宏彦に待ちくたびれて、資料を受け取りにやって来たのだろう。
自分のわがままで時間を取らせてしまい、本当に申し訳ないことをしたと思う。
が、しかしだ。
あろうことかその人は、彼のことを、ひろひこと呼び捨てにしたのだ。
どういうことだろう。そんなにフレンドリーな会社なのだろうか?
外資系の会社に勤務している友人からファーストネームで呼び合うこともあると聞いていたが、宏彦の会社も?
いや、彼からそんな話は聞いたことがない。
澄香は頭の中が答えの出ない疑問でぐるぐる回って、何も考えられなくなっていた。
「あっ……。彼女がここで、俺が帰るのを待っててくれて。遅くなってごめん。すぐにアレを持ってくるよ」
「宏彦、そんなに急がなくてもいいわよ。タクシーにはもう行ってもらったから」
「えっ? 」
「宏彦ったら、そんなにびっくりしなくてもいいじゃない。えっと……。彼女さん。はじめまして、こんばんは」
「こ、こんばんは、はじめ……まし……て」
澄香は、目の前にいる、赤い唇の端を上げたきれいなその人を見た。
長いストレートの黒髪のすき間から、リング状の大きなイヤリングが揺れて見え隠れする。
知っている……。
澄香はこの人を、確かに知っていると思った。
なら、この人はいったい誰なのだろう。
どこで会ったのか、どういうつながりの人なのか。
知っているはずなのに、全く思い出せないのだ。
会社で? それとも、大学で?
あるいはバイト先の人だろうか。
それも違うと言うのなら……。
高校の時の知り合いだとでも?
遥か遠い記憶の糸を辿り始めた時、宏彦が澄香の腰に手を添えて、全く抑揚のない声で話し始めた。
「澄香。この人は、野球部の先輩の。……片桐ひとみさんだ。知ってるだろ? 」
片桐……ひとみさん。
そうだ。野球部のマネージャーだった、あの片桐先輩だったと記憶がよみがえる。
あっという声と同時に、紙袋が手から滑り落ちて、ばさっと廊下のコンクリートの上に落ちた。
すると、片桐も同じようにあっと声を漏らす。
「すみか……さん? もしかして、高校の時の? 池坂さんなの? 」
目を大きく見開いた片桐がさっきまでの笑顔をすっかり消し去り、宏彦の前ににじり寄る。
「宏彦? まさかとは思うけど……。あなた、取ったの? この人、翔紀の。彼女だったんじゃ……」