42.知っている その1
澄香視点にもどります。
「宏彦! 」
澄香は待ち焦がれた人を視野の端に捉えたとたん、その人に向かって走り出していた。
玄関ドアの前に置いておけばいいものを、右手にはまだ大きな紙袋を持ったままだ。
コートの裾が紙袋を掠って、パリパリと小さな音を立てる。
澄香は宏彦の前に立ち、六日ぶりに見るその姿を、余すところなく網膜にしっかりと焼き付けた。
「澄香……。どうしてここにいるんだ? 」
半ば呆然としながら、宏彦が澄香を見てつぶやく。
「ふふふ。来ちゃった」
「来ちゃったって……。いつ帰ってくるかもわからないのに? ずっとここで待ってたのか? 」
宏彦が上着のポケットを弄り、携帯を取り出す。
「宏彦。あたし、メールも電話もしてない。だって、仕事の邪魔になったらいけないでしょ? 」
「澄香……」
「もしかしたら接待の真っ最中かもしれないし。あたしがこっちに来てるなんてわかったら、宏彦のことだもの。きっと気もそぞろになって、困るんじゃないかと思って。ふふ。言っちゃった。これって、うぬ惚れすぎてるかな? 」
「いや。多分、その通りだと思う。早く帰って澄香に会いたくて、仕事どころじゃないだろうな。……にしても澄香。寒かっただろ? 無茶ばかりして」
澄香の左手に宏彦の手が触れる。
「大丈夫。昼間は、すっごく暖かかったでしょ? それにここに着いてからまだ……その……。そうそう、三十分くらいしか経ってないし。平気のへっちゃらだってば。あと五分待って宏彦に会えなかったら、神戸に帰るつもりだった。だって、明日はちゃんと会えるんだもの。ね? 」
「そうか……。こんなところで待たせて悪かった。なあ澄香。ここじゃ、寒いだろ? 風邪ひいてしまうよ。さあ、部屋に入ろう」
「うん。でもその前に。はい、これ」
宏彦がきょとんとした顔で澄香が差し出した大きな袋を見る。
「遅くなっちゃったけど。お誕生日、おめでとう」
「あっ……。あ、ありがとう。それより、早く部屋に入って」
ところが宏彦は、紙袋を受け取らないまま、澄香の肩に手を載せて、彼女の身体をくるりと回転させる。
そして背中を押すようにして、部屋の前に連れて行こうとした。
「ひ、宏彦。待って! 中身は部屋に入ってから見てくれたらいいんだけど。とにかく持ってみてよ。そして、この袋の中が何なのか、当ててみて。はいっ! 」
再び宏彦の方に向き直った澄香が、彼女らしからぬ強引さで袋を差し出す。
大きさのわりに、軽いこの荷物。彼は喜んでくれるだろうか。
デパートのインテリアショップから、ポートアイランドにある北欧家具の専門店まで、思いつくかぎりのところを回って選んだ例の籠とセーターが入っているのだ。
「今はいい。後でゆっくり見せてもらうよ。ここじゃ、寒いし暗いだろ? とにかく部屋に……」
「宏彦? ちょっと待って」
急に澄香のヒールの音が止む。
「なんだ? 」
「いったい、どうしたって言うの? なんか今日の宏彦、変だし。やっとあなたに会えて、あたしはこんなに嬉しいのに。宏彦ったら、ちっともそうじゃないんだもの」
「い、いや。そんなことはない。俺だって嬉しい。ただ……」
「ただ? 」
「あっ、いや、その……。下に、会社の人を待たせてて。資料を渡さなきゃならないんだ。それで……」
「えっ? なんだ。そうだったの? なら、もっと早く言ってくれればいいのに。どうして上がってもらわないの? 」
そういうことなら、すぐに彼の意向に従うのに。
何を遠慮しているのか、宏彦の煮え切らない態度がひっかかる。
恋人同士になったばかりの二人には、他人行儀な壁が随所に立ちはだかるということなのだろうか。
「資料を渡すだけで、用は終わるんだ。向こうも急いでるみたいだし、タクシーに乗ったまま待ってもらってる。そいつが帰ったら、一緒にメシでも食いに行こう。だから。なっ? 」
宏彦が、お願いだから俺の言うことを訊いてくれよとすがるような目をして澄香を見る。
澄香は必死になって説明している宏彦が、どこか子どもじみてておかしかった。
そんな彼を見ていると、今すぐにでも抱きついて、あわてている宏彦の胸に顔をうずめてみたい衝動に駆られる。
宏彦には三十分と言ったけど、実は二時間近くもここにいたのだ。
いつ帰ってくるともしれぬ彼を思いながら、廊下の柵に寄りかかって待っていた。
彼に一目でもいいから会いたかったというのが一番の理由だが、ふいに飛び込んだ仕事のせいで疲れている彼をねぎらい、思いがけないサプライズで彼を喜ばせたかったというのもある。
ピザの配達の人にぎろっと睨まれ、二軒隣の年配のおじさんに怪訝そうな顔をされ。
向かいのアパートの窓からも、何度かこちらを盗み見された。
それでも、宏彦の顔が見たくて、こうしてずっと待っていたのだ。
あと五分待って、帰ってこなければ……。
荷物だけ玄関脇のメーターボックスの中にでも忍ばせて、神戸に戻ろうと決めていた。
そう思った矢先に、宏彦の姿を見つけた時の嬉しさと言ったら。
澄香はさまざまな思いを振り返り、気付けばなりふり構わず、宏彦に抱きついた。
紙袋がガサガサと音を立て、彼の足の後に当たる。
「お、おい。澄香」
「ちょっとだけ。お願い。ちょっとだけ……こうしていて……」