41.あたしじゃ、ダメなの? その2
「んもう。そんな顔しないでよ。でもね、仕方ないの。あたしだって、前の彼女から彼を奪ったんだもの。そのしっぺ返しが来たってだけのこと。自業自得ってやつ」
「しっぺ返しか……」
「そう。すべて、自分に返って来るってこと。でもね、今度は、管制官やってるヒトが食事でもって言ってくれてるの。それがね、彼って、まれにみるいいヒトなのよ。お笑いのあの人に似てるの。えっと、誰だっけ? ほら、映画にも出てたんだけど。ちょっと小太りの。まあそんなことどうでもいいわよね。あはは。あたしももう二十五だし。次に付き合う人とは結婚も視野に入れなきゃならないでしょ? だからね、その人なら文句なしなの。きっといい旦那様になるわ。ふふふ。それに、あたしと境遇も似てるの」
帰国子女で、関西出身で……。
次から次へとおもしろおかしく話し続ける片桐の目は。
少しも、笑ってなどいなかった。
「ひとみ」
「あら、なんてこと? あたしったら、さっきから一人でぺらぺらしゃべってばかり。宏彦、何かしら? 」
「テキストのことだけど。今から君に返すよ」
「えっ? 今から? 神戸に取りに行ってくれるの? 」
「俺の記憶違いだった。多分、寮にある。タクシーで往復すれば、三十分ちょっとでここに戻ってこれると思う。遅くても四十分以内に。悪いけど、待っててくれるか? 」
今日で彼女に会うのも、本当に最後になる。
借りを作ったままにしておくのは宏彦の本意ではない。
このテキストを返せば、すべてが終わるのだ。
彼女の気持もこれで整理がつくのならと、今夜澄香の元に駆けつけることをあきらめてでも、そうするべきだと思った。
「なら、あたしも……。ついて行ってもいい? 」
「えっ? 」
宏彦は、危うく手にしたコーヒーカップを落としてしまうところだった。
この人の強引さは、ますます磨きをかけて健在だった。
あたりが暗くなり始める。
タクシーが宏彦の指定したとおりに路地をたどり、渋滞をかわしながら北へと進む。
「宏彦。あたしがついて来て、困ってる? 」
「そんなことはない」
正直なところ、やはり困惑を隠せない。
本当なら今ごろ神戸に向かっていたはずなのにと思うと、隣に座る片桐が仇のごとく憎い存在へと化してしまう。
「やっぱ、強がってる。でも、安心して。あなたの寮がわかったからって、押しかけたりしないから。だってそんなの、ついて来なくても知らべればすぐにわかることだもの。ストーカーにはならないわ」
「別に、ひとみを疑っちゃいない」
「ふふふ。そういうところ、昔とちっとも変わらないんだから。あたし、あなたのそんなところに魅かれたのかも……」
またそういう話か……。
宏彦は無意識のうちに深くため息をついていた。
彼女がいると表明したにもかかわらず、さりげなくアピールを続ける片桐に、うんざりする。
「んもう、宏彦ったら。そんな顔しないで。あたしの独り言くらい、聞き流してくれてもいいでしょ? ああ、それにしても気になるわ。そんなあなたの気持を受け入れてくれた彼女って、どんな人なんだろ。相当心の広い人なのかもね」
「…………」
返事に困る。
片桐は多分、澄香のことを知っているはずだ。
それも木戸の彼女としての澄香を。
なのに今さら、実は自分の婚約者だと言えるはずもなく。
「すぐにそうやって黙り込むんだから。あっ、もしかして! 彼女があなたの部屋にいるとか? そっか。だからあたしと一緒だと都合が悪いんだ」
「そんなわけないだろ。合鍵はまだ渡してないよ」
まさかこうなるとは予想だにしなかった宏彦は、テキストを取りに帰ろうなどと思ったことをすぐに後悔した。
ついて来るなとも言えず、彼女のしたいようにさせるしか選択肢は残っていなかったのだ。
寮の下でタクシーと彼女を待たせて、テキストを渡し終えたらすぐ、その場で見送ればいい。
それならば、さっきから感じていた澄香への後ろめたさも、払拭できる。
不可抗力とはいえ、澄香と約束をしていた日に別の女性と二人でいることに、宏彦はたとえようのない負い目を感じていたのだ。
寮の駐車場の手前でタクシーが停車した。
「じゃあ、取ってくる。ここで待っててくれ」
「わかったわ」
片桐が一緒に降りると言わなかったことに、安堵を覚える。
やはり心のどこかで、彼女が暴走するのではないかと不安を感じていたのかもしれない。
彼女とて、名だたる外資系の航空会社に務める立派な社会人だ。
その辺りの良識はきちんとわきまえていたのだろう。
タクシー乗務員にその旨を話し、片桐を車に残したまま宏彦は自分の部屋に向かった。
階段を駆け上がる。
そうだ。タクシー代もひとみに渡さなければいけないな、などと思いながら、部屋を目指した。
階段を上がりきって、廊下を歩く。
各ドアの上に電灯がついているが、宏彦の部屋の前だけ、数日前から蛍光灯が切れてしまったせいか薄暗い。
廊下の先を見ると、白っぽい服を着た人が立っているのが目に入る。
こんな時間に誰だろう。
宏彦は目を凝らして、その人を見た。
まさか。そんなはずは……。
「澄香……? 」
宏彦の声に振り向いたその人は、一瞬驚いたような顔をしたかと思うと、すぐに形相を崩し、宏彦、と彼の名前を呼びながらヒールの音を響かせ、駆け寄ってきた。