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かくれんぼ  作者: 大平麻由理
番外編 1-4 青春酸歌
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39.久しぶりね その2

 宏彦が予定通りに仕事を終えて、烏丸の支店に戻ったのは五時。

 こんなに早く終わるのなら、澄香に会えたかもしれない、などとふとそんなことを思いながら、ぼんやりと携帯を眺める。

 今からすぐに神戸に帰れば、会う時間はまだ十分にあるはずだ。

 そうと決めたら、グズグズなんぞしていられない。

 宏彦は、パソコンに向かい猛スピードで本日の報告書を作成し、意気揚々と帰り支度を整え始めた。


 会社からだと、烏丸から私鉄の特急に乗って神戸に向かうのが手っ取り早い。

 土曜日なので出勤している人はごくわずかだ。

 フロアにいる数人の先輩社員にお先にと声をかけ、エレベーターに向かおうとしたその時だった。


「加賀屋くん。ちょうど良かったわ。実は加賀屋君が部長と出てる間に電話があったんよ。これなんやけど……」


 宏彦の手に一枚のメモが載せられた。


「なんかね、高校時代の関係者やとか言ってはったけど。きれいな声の人やったよ。私用の連絡みたいやから、加賀屋君の携帯に連絡しなかったんやけどね。ここに書いてある携帯番号に電話して欲しいんやって。この近くにおるって言わはったわ。もおっーー。加賀屋くんは……」


 ほんまに、モテモテなんやから……と主任の先輩女性社員に力任せに肩を叩かれ、ぐらりとバランスを崩す。

 なんとか体勢を立て直し、携帯番号の横に添えられていた片仮名をじっと見る。


 カタギリ。


 宏彦はしばらくの間、そのメモから目を離すことができなかった。




「宏彦。久しぶりね」

「ああ……」

「やだ、もっと嬉しそうな声出してよ。もしかして、会社に電話なんかしちゃって、迷惑だったかしら? 」

「いや、そんなことはないよ。というか、今日は日本語で話すんだな」

「別にいいでしょ。仕事でもずっと英語だもの。プライベートは日本語がいいの」

「心境の変化ってやつか? 」

「そうかもね……。でね、今日は土曜日だし、会社には誰もいないんじゃないかなって思ったんだけど、主任さんだったかしら? すぐに電話に出てくれて。おまけに今日、あなたが出勤してるって言うじゃない」

「本当は休みの予定だったんだ。でも急に仕事が入って出勤することになった。ひとみの勘の良さは、昔のままなんだな」

「昔のままなのは勘の良さだけ? ねえ、宏彦。あたしをよく見て。体型だって、大学の時とほとんど変わってないのよ。ふふふ。誰にもおばさんなんて言わせない」

「相変わらずだな……」


 宏彦は目の前に座る片桐の自信に満ち溢れた様子に、苦笑いを浮かべる。

 この人のこういうところ、あの頃と少しも変わっていない。


「で、今日はどうしたんだ? 何か用なのか? 」

「あら、いやだ。何か用がなきゃ、会っちゃいけないの? 宏彦ったら、アドレスや電話番号が変わったの、教えてくれないんだもの。こうでもしなきゃ、会えないでしょ? 」

「じゃあ、こうやって会えたわけだし。もういいだろ? 俺はもう行くよ」


 錦市場の一角にある古びた喫茶店で、落ち着き無く足を組みかえる宏彦は、伝票を手にしてすっと立ち上がる。


「待って! 」


 片桐の手が、宏彦の伝票を持つ手を押さえ込んだ。


「そうだわ。あなたが大学二年の時だったかしら、フランス語の速習のテキスト、貸してあげたでしょ? 」

「はあ? そう言えばそんなことも……って、そのテキスト、俺にやるって言わなかったか? 借りた覚えは無いが」

「そう言ったかもしれないわね。でもあのテキスト、絶品だったでしょ? そのおかげでフランス語の成績はトップだったって言ってたじゃない」

「確かにあのテキストに助けられた部分はあるとは思うが、英語ができれば、フランス語も習得は早い。それだけのことだよ。おかげで、フランス語圏の人たちとの商談でも不自由はない。ひとみだって、フランス語は俺より流ちょうなはずだが? 」

「でもね、これから先、パリに飛ぶことが多くなるのよ。だからもっと勉強しくちゃならないの。あのテキスト、もう絶版になってるし、返して欲しい。お願い」

「急にそんなこと言われても。こっちにはないぞ。多分……実家だ」


 宏彦は寮のクローゼットの中に押し込んでいるテキストを思い浮かべながら、適当に返事をする。

 実家と言っておけばあきらめてくれると思ったのだ。

 今の宏彦には、こんなところで片桐と言い合いをする時間などない。

 今から電車に飛び乗れば、七時には神戸に帰れる。それから澄香に会っても遅くないのだから。


 野球部のマネージャーでもあった先輩の片桐とは、高校時代からの腐れ縁ではある。

 何かと面倒を見てくれて、テキスト類も譲り受けたりもしていたのだが、まさかこの期に及んで返却を求められるとは思ってもみなかった。

 宏彦は目の前のフライトアテンダントの真意が全く理解できなかった。


「じゃあ、あたしも今から神戸まで行くわ。宏彦も明日は休みなんでしょ? おばさまにも久しぶりにお会いできるし」


 母も結婚前はスチュワーデスをしていた。今はCA (キャビンアテンダント)とも言われる客室乗務員のことだ。

 航空会社に就職するにあたって、片桐が母に相談をしていた経緯があるだけに、このままだと本当に神戸まで押し掛けそうだ。

 困ったことになった。


「おい! 何勝手なことを言い出すんだ。そんなにあのテキストが大事なのか? なら明日にでも、そっちの会社に送るよ。それでいいだろ? 関空か? 成田か? 」

「だめ。今すぐ欲しいの。じゃあ、あたしだけ神戸に行ってくる。おばさまに言えば、探してくれるわよね? 」


 宏彦は再び椅子に座り、頭を抱え込む。

 そうだった。この人は一度言い出したら後には引かない。

 いつもそれでもめていたではないか。


「わかったよ。返せばいいんだろ? それを受け取ったら、帰ってくれるのか? 」

「宏彦? 本当にあなたは宏彦なの? いったいどうしたって言うのよ。あなた、随分変わった。そりゃあ、昔からあたしには、ちっとも興味を示してくれなかったけど。話くらいは、聞いてくれたじゃない。六本木で朝まで飲み歩いたこともあった。今夜くらい一緒にいてくれてもいいでしょ? ね? 」


 多分世間一般の人が見れば、きれいな人だともてはやされるのだろう。

 けれど、目の前のこの人は、宏彦の想い人ではない。

 過去にも現在でも、この人と心を寄せ合うことはなかった。


 彼女が上下関係の厳しい部活の先輩であること、そして親の関係の知り合いであることから無碍にもできず、一線を引いた付き合いのみで、一切の深入りはなかった。


「なあ、ひとみ。俺にだって人生ってものがある。一緒にいて欲しい人もいるんだ。なのに、君といる理由なんて、どこにもないだろ? 」

「えっ? それって、どういうこと? もしかして。彼女が……いるの? 」


 片桐の顔色がさっと変わった。

 

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