38.久しぶりね その1
番外編 第四章 青春酸歌
青春は、甘い思い出ばかりではありません。
酸っぱい出来事も、時として乗り越えなければならないのです。
澄香と宏彦の青春時代も、『賛歌』に値することばかりではありませんでした。
宏彦視点になります。
カーテンを開け、窓越しに空を仰ぎ見た。
まだ二月だと言うのに、うららかな陽射しが部屋の中までふり注ぐ。
まるで春を思わせるような陽気に誘われるよう、宏彦は腕を天井に向けて、大きく伸びをした。
が、次の瞬間にはそれは落胆のため息に変わり、机の上の携帯を乱暴に手にして、ベッドにドサッと腰を下ろす。
画面に表示させた名前はSUMIKA。
家族よりも、誰よりも、今最も自分に近しい存在の女性の名だ。
すかさず通話ボタンを押し、彼女の声を待った。
「もしもし、澄香か? 」
『あっ、宏彦? おはよう。もうすぐ家をでるところだったの。準備はバッチリだよ。でね、信雅が駅まで送って』
「澄香。悪いんだが……。今日、会えなくなった」
『えっ? 』
澄香が今どんな顔をしているのか、目に浮かぶようだった。
大きな目をよりいっそう大きく見開いて、少し首を横に傾げる。
そして薄いピンク色の口元が何か言いたげにかすかに開き、それはまるで自分を誘っているかのように、熱い吐息をもらしながら、訴えかけるのだ……。
電波を通して声を聞いただけで、宏彦の胸の中は電話の向こうの彼女への思いで、いっぱいになるのだ。
『ねえ、どういうこと? 会えないって……』
澄香のとまどったような声色が、宏彦の心をざわつかせる。
会えなくなったと急なデートのキャンセルを告げておきながらも、自分の腕の中で精一杯応えてくれた先週の夜の彼女を思い、宏彦は身体の奥が熱く疼くのを感じていた。
『ねえ、宏彦。聞いてる? 』
「あ……。ごめん。聞いてるよ。今日、急に仕事が入ってしまったんだ。夜中に部長から電話があって、アメリカの取引先のトップがこっちに来てるらしくて。彼らが京都観光をする合間に、商談のアポイントが取れたんで、俺の通訳が必要だと言われた。そしてついさっき、本決まりになった」
『そんなあ……。今日は絶対に大丈夫だって。仕事はないって言ってたのに……』
「その予定だったんだが……。俺はアメリカの商談には無関係な立場なんだけど、部長に直々に頼まれたんじゃあ、断ることも出来なくて」
『そっか、そうだよね』
「澄香には申し訳ないと思っている。俺だって会えないのは辛い。何かいい手立てはないかといろいろ探ってみたが、いい案が思いつかない。なあ、澄香。明日じゃだめか? 」
宏彦は左手でこぶしを作り、顔を歪める。
この一週間、澄香に会えることだけを楽しみに、仕事に向き合って来たのだ。
なのに、部長の突然の電話で、すべてが崩れ去ってしまう。
出来るものなら断りたかった。
休日に、それも自分の担当外の仕事であればなおさら、ノーと言っても咎められることはないようにも思われた。
だが、この大きな商談の場に自分が指名されたことの意義が何であるのか、宏彦は薄々感じ取ってもいたのだ。
東京本社から出向いてくる上層部の役員に対し、宏彦の名を知らしめる絶好のチャンスだと部長が判断し通訳として推薦してくれたこともわかっていた。
まだ入社二年目の宏彦にとって、選択肢は一つしかないも同然だ。
断ることなど、初めから想定されていないのだから。
『わかった……。明日まで、我慢する』
すっかり元気を失くし、意気消沈した澄香の声が宏彦の胸にチクリと突き刺さる。
自分に会えないことをこんなにも悲しんでくれる彼女が愛しくて、今すぐにでも抱きしめたくなった。
でも哀しいかな、彼女は、今ここにはいない。
『ねえ、宏彦? 』
しばらく沈黙が続いた後、少し明るくなった澄香の声が耳に届く。
「何? 」
『その仕事、何時に終わる予定なの? 』
「夕方には終わるけど。ただし、夜の接待に同行することになった場合、どうなるかわからない」
『そうなんだ。……わかった』
再び澄香の声が深く沈みこむ。
「澄香、ごめんな。明日は何があっても断るから。絶対に澄香と会う。もう、こうなったら、仕事なんかクビになってもいいと思ってる」
口から出任せでもなんでもない。これは宏彦の本心だった。
『宏彦ったら、そこまで飛躍しなくても……。あたしだって会社員の端くれだよ。仕事の大切さはわかってる。宏彦はきっと部長さんに期待されてるんだよ。それって、すごくない? だから、今日の通訳、がんばってね』
「ああ。ありがとう。じゃあ、明日」
じゃあねと言って澄香の電話が切れたのを確認して、宏彦は携帯を机に置いた。
いくら仕事とはいえ、こういうことが重なれば、彼女に愛想をつかされるというのはよく聞く話だ。
自分ならば仕事よりも何よりも、彼女のことを一番に考えるだろうと、職場の先輩たちの話を鼻で笑ったものだが、人ごとではなくなったのだ。
まさか自分の身にそのようなことが降りかかろうとは思ってもみなかったので、澄香の思いやりのある言葉が心に染み入る。
明日こそは、彼女の望みをすべて受け入れて、誕生日を祝ってもらおうと、宏彦はふっと口元を緩めた。