36.恋愛同盟 その1
澄香は何度もため息をついていた。
仕事も終わり、今すぐにでも帰れる時刻だというのに……だ。
「澄香。いったい、どうしたのさ? 昨日、ヒロヒコ君と会ってたんでしょ? なのに何でそんなに沈んでるの? もっとこう……。嬉しそうにデートの報告をしてくれてもいいのに。あたしに遠慮なんて、いらないんだからさ」
デスクにひじをついて座っている澄香の肩に、チサの手がポンと載っかってくる。
「ふうーーっ。チサ、あたし、ため息なんかついてたっけ? 」
「やだ、澄香ったら。それがため息じゃなくて、何だって言うの? 仕事は? もう終わったんでしょ? 」
チサが前かがみになって、澄香の背後から訊ねる。
「うん。帰ろうと思うんだけど……。もし、今帰って……ちゃんが家にいたらどうしようって……」
「ええっ? 何? 今、なんて言った? 」
チサの声が大きくなる。
「あっ、いや。何でも……ない」
「変な澄香。で、どーする? 今から飲みに行く? なんなら付き合ってもいいけど」
「チサ。ありがと。でも、飲むのはやめとく。ちょっと睡眠不足が続いてるし……」
「あれれ。もしかして、お泊りデートだったの? 彼に眠らせてもらえなかったとか? ねえねえ、どうなのよ」
肩に載っているチサの手が、澄香を前後に揺すぶる。
「ち、チサ。ここは会社だから。それ以上はちょっと……ね? 」
「誰も聞いてなんかいないわよ。そっか……。澄香もついに……ムフフフ」
チサの不気味な笑いが澄香の背後に貼りつく。
「あ、あたしは何も言ってないからね。チサが勝手に変な想像してるんだから! 」
「澄香ったら、耳まで赤くなっちゃて。ホント、わかりやすいよね。で、どうだった? 彼、優しくしてくれた? 」
「うん……って、だから、ここではそんな話は出来ないってば……」
澄香は軽くめまいを覚えながら、チサの興奮をなんとか鎮めようと試みる。
「わかった。わかった。じゃあ……。どこかで、お茶でもする? 」
もちろん、今週もウィークデーは宏彦と会えないので、チサの誘いを断る理由は何もない。
でも気になるのだ。信雅のことが。
そしてもちろん、早菜のことも……。
「チサ、ごめん。今日はやっぱ、帰る。京都であったことは、また今度、詳しく話すからさ。あたしも、チサやみんなの仲間入りしたってことを……」
「やっぱ、そうなんだ。そっか、なるほどね。なかなかに素早い展開、澄香もやるじゃん! でも、つまんないな。今日は教えてくれないんだ。じゃあ今度、絶対に話してよ。めくるめく愛の一夜を、すべて隠すことなく赤裸々に語ってちょうだいね、約束だよ! 」
「わ、わかった。あんなことも、こんなことも全部詳しく話すから。今日は本当にごめん。じゃあね」
澄香は両手を合わせてチサに許しを請い、不服そうな彼女を会社に残したまま、一人家路を急いだ。
昨日は昼食のあと、四人で銀閣寺に向かった。
信雅は太秦に行きたいと主張したのだが、早菜のたっての希望で、多数決の結果銀閣寺に行くことに決まったのだ。
早菜がマニアックと呼ばれるのにふさわしいほどの日本史ツウなのは、昔から知っていたが、まさかここまでとは……。
それは宏彦も舌をまくほどのすさまじさだった。
銀閣寺の成り立ちはもちろんのこと、足利家のお家騒動まで、こと細かに説明してくれるのだ。
教科書に載っていない人名も数々登場し、一同目が点になったのはもちろんのこと、澄香たち四人以外に、何組かの見知らぬグループが一緒にくっついてきて、早菜の話に耳を傾けるありさまだった。
小さい身体で身振り手振りを加えて一生懸命説明する姿は、澄香の目にいじらしく映る。
ところが。そんな彼女を一番理解してあげる立場であるはずの信雅が、始終不機嫌だったのだ。
元来記憶力だけは良かった信雅は、一夜漬けで点数を稼いで、県内でも有数の進学校である中央高校にもぐりこんだという強運の持ち主ではある。
でもそれが見せかけの実力であるのは言うまでもない。
日本史など、とっくの昔に忘却のかなたに押しやっていた彼にとって、早菜のガイドつきの寺めぐりは、苦痛以外の何ものでもなかったのだ。
早く見学を終えたい一心で、先へ先へと勝手に進み、早菜の話など終盤はこれっぽっちも聞こうとしない。
はらはらし通しだった澄香は、ますますこの二人が恋人同士であるなどと信じられなくなっていた。
ところが、見学を終えて車に戻ったとたん、一変するのだ。
二人で意味もなく見つめあったり、信号で停止するたびに、信雅の左手が早菜の身体の一部に触れる。
それは、髪であったり、手であったり。時には、膝の上であったり……。
後ろに姉と先輩がいるにもかかわらず、そんなことは全く眼中にないとでも言うように、二人だけの世界が繰り広げられる。
宏彦はあくまでも見て見ぬふりを貫き通し、意味ありげな笑みを浮かべた後、また連絡すると澄香に耳打ちして、寮の前で車を降りた。