34.恋の連鎖反応 その1
「せんぱーーい! 」
運転席の窓を全開にして、日本人離れした彫りの深い顔立ちの男性が右手を振る。
念入りに整えていたであろう、東京の某有名ヘアサロンでカットしているという自慢の髪は、吹き付ける春一番にあおられ、瞬く間に形を乱し、くしゃくしゃになってしまったようだ。
寮の向かいにあるマンションの駐車場の前に止まった馴染みのシルバーのワンボックスカーに澄香は宏彦と共に駆け寄った。
それは確かに池坂家の車で、運転手は弟の信雅だった。でも助手席にいるのは……。
「さ、早菜……ちゃん? 」
澄香は車の中で真っ赤な顔をして俯いている女の子を食い入るように見る。
「先輩、えらいあつかましいこと言うて、すんません。こいつがどうしても先輩の顔見たい言うもんやから」
信雅が隣にちょこんと座る早菜をあごでしゃくるようにして指し示す。
早菜は宏彦と目を合わすことなく、こんにちはとだけ言って、尚もまだ真っ赤な顔をして小さくなっていた。
澄香はこの光景が意味するものが何であるのか、まだ理解できなかった。
宏彦が言ったとおりだとすると、早菜が信雅の彼女ということになる。
そんなこと……。
あるわけがない。
早菜と信雅が分かり合える部分など、一パーセントもないはずだ。
方やまじめで素直で、浮ついたところなど全くない、非の打ち所のない女の子。
中央高校でもめったに合格者が出ない、国内最高の頭脳の集積とも言われる国立大に通う女子大生だ。
方や、ちゃらちゃらしていて、見た目と等しく中身も軽く、非を挙げればきりがない今時のどうしようもない大学生。
どうすればそんな二人が恋人同士になれるのか。
澄香には全く理解できない。もしそれが事実なら、世も末だ。
いくら聡明で分析力に長けた宏彦であっても、彼の予測は外れだと言わざるを得ないだろう。
早菜の後のシートに座った澄香は、しばらく二人の様子を観察することにした。
「先輩。姉ちゃんが一晩お世話になって、ほんまにありがとうございました」
運転席の後に窮屈そうに座っている宏彦に向けて、信雅なりの謝辞が発せられる。
運転中の信雅は進行方向を見据えながら、ぺこりと頭まで下げた。
けれど、一晩お世話になって……のくだりは余計だ。
そういうところが軽いと言われる所以なのよと、澄香は心の中で信雅に毒づく。
「別に、おまえに礼を言ってもらうようなことじゃないが……。つい、いろいろと話し込んでしまって、姉さんを神戸に帰せなくなった。こっちこそ、悪かったと思ってる」
澄香は、夕べから今日にかけて、夜通し自分の身に起こったあれこれを思い浮かべ、それを話し込んでいたと表現するすました顔の宏彦を、ある意味、尊敬の眼差しで見つめる。
確かに話もした。メインは明らかに別事情だったが……。
「先輩、何言うてるんですか。俺だってもう子どもとちがうんやから。姉ちゃんが帰ってきても帰ってこんでも、別にどうってことあらへんのやけど。それにしても先輩、うまいこと言うなー。話し込んでたやなんて。大人の事情ってやつですよね? いひひひ……」
澄香は膝の上で、こぶしを握り締める。
下品極まりない信雅への怒りが爆発寸前だ。
せっかく話をソフトに持っていこうとする宏彦の配慮が一瞬にして無駄になるではないか。
それも、早菜がいる前でそこまで言うなんて……。
澄香は恥ずかしさと腹立たしさで、ここから逃げてしまいたくなる。
後から早菜の表情は見えないが、彼女はずっと黙ったままだ。
いつもならお姉ちゃんお姉ちゃんと澄香を慕い、何でも訊いてくる早菜が、別人のように小さくなっているのだ。
やはり彼女も信雅のばかさ加減にあきれて、言葉を失ってしまったのかもしれない。
「あっ、あそこのファミレスで昼ごはんにしましょか? 」
信雅が信号の向こうに見えるチェーン店を指差す。
今から四人そろって早めの昼食を取りながら、お互いの自己紹介をすることになっているのだ。
「ああ。あそこなら席もいっぱいあるから大丈夫だろう。せっかく京都まで来てもらって、どこにでもあるファミレスで申し訳ないんだけど。それでもよければ」
「俺は全然平気ですけど。堅苦しいところは苦手やし、へへへ」
「信雅。彼女もいるのに、それでもいいのか? デートも兼ねてるんだろ? 」
で、デート? それって、隣にいる早菜のことをまだ彼女だと思っているのだろうか。
宏彦は自分の直感に相当自信があるようだ。
けれどその直感も大ハズレだとそのうちにすべてを知ることになるだろう。
「はあ? 先輩、いったい何言ってるんです? 俺とこいつはデートなんかしてませんよ。後でちゃんと紹介するつもりやったけど、こいつ、姉ちゃんの子分なんです。だからどーしても姉ちゃんのカレシを見てみたい言うて。だから連れてきただけなんやけどな」
やっぱりそうだったのだ。
この健気で生真面目な早菜が信雅の彼女として同乗することなど、絶対にありえないってことが証明されたではないか。
もう宏彦の思い込みもここまでだ。
「の、ノブ君。そんなことまで言わんでもええって……」
けれど、早菜ときたら……。蚊の鳴くような小さな声で、信雅にそんなことを言う。
んん? 何か調子が狂う感じがするのだが、気のせいだろうか。
澄香は早菜の控え目な言動に目を見張った。
いつもなら、もっとはっきりと意見を主張するではないか。
早菜ちゃん、いったいどうしたというの?
「なんでえな。おまえが先輩に会いたい言うたんやろ? 」
「だ、だから、もうええって言うてるやん……」
「そんなこと言うたって、俺はおまえが先輩に会いたいって、えらい鼻息も荒く、まくしたてるから、はるばる神戸からここまで来たのに、ホンマかなわんわ……」
「ノブ君、ホンマに、もうええから。お願いやから、これ以上何も言わんといて」
前で何やら意味不明な押し問答が続く。
澄香は二人のやり取りを聞きながら、どこかいつもと違う空気を感じ取っていた。
それはただの昔なじみの二人ではなく、どう見ても恋人同士の会話のようにしか見えないからだ。
早菜のことをおまえ呼ばわりする信雅を見るのも、信雅より下手にでてもじもじした早菜の姿を見るのも、実は初めてだったのだ。
いったいこの二人に何が起こっているのか。
宏彦の推測があながち外れていないという可能性も、急激に澄香の中で浮上し始める。