33.無駄な抵抗
「えっと。ここは左京区だよ。京都駅から見たら北側になる……と思う。うん。うん。京都南のインターを下りて……その……」
「おい、貸せ」
ベッドに腰掛けた宏彦が澄香の携帯を奪い取り、話し始めた。
「俺だ。その車、ナビは? 付いてる? ……じゃあ、今から住所を言うから、設定して。左京区……」
澄香はベッドの上で、宏彦に借りたトレーナーの長い袖にすっぽりと手を隠し、おまけに毛布を頭からかぶって、電話で話す宏彦を見ていた。
くしゃくしゃの髪に、洗いざらしのTシャツを着た宏彦が、少し掠れた声で住所を告げる。
首筋から肩にかけてのたくましい筋肉の隆起が、Tシャツ越しにくっきりと浮かび上がる。
前のめりになって携帯を耳にあてているせいか、背中が緩いカーブを描いている。
そこをゆっくりとたどって、腰の下に視線を落とすと……。
目を背けたくなるくらいに乱れたシーツが、澄香の視界に容赦なく飛び込んできた。
昨日の夕方から延々と続いた出来事は、澄香のこれまでの人生観を百八十度変えてしまったかもしれない。
とても宏彦が発したとは思えないような秘めやかな言葉の数々に、思い出しただけでも気が遠くなりそうになる。
これが誰もが通る道と言うならば。
世の中の大人たちは皆、強靭な精神力と、類まれな忍耐力の持ち主に違いない……と断定できる。
立ち上がるのもままならないほどの気だるさを覚えながら、澄香は目の前の男の広い背中をぼんやりと眺めていた。
時計を見ると、もうすぐ十時になろうとしている。
朝の十時だ。カーテン越しに射し込む朝日がやけにまぶしい。
澄香は夕べ、神戸に帰らずに、そのまま宏彦の寮に泊まったのだ。
もちろんそうするつもりは全くなく、想定外のことに自分でも驚いている。
というか、そんな勇気が自分にあったこと事態が信じられず、今こうして宏彦と一緒に朝を迎えていることも、夢の続きをみているような不思議な感覚に包まれていて、現実だとは到底思えない。
昨夜はどうしても宏彦と離れたくなかった。
そのままずっと、彼のそばにいたいと切実にそう思った。
週末には父親も三重に戻り、母親も一緒に父のもとに行っている。
家にいるのは弟の信雅だけだった。
信雅には、宏彦に会うことは正直に伝えていたのだが、必ず夜には帰るからと胸を張って家を出てきた手前、どうもバツが悪い。
どうやってこの状況を説明しようかと散々悩んだ挙句、メールで今夜は帰らないとだけ伝えたのだ。
信雅とて両親や澄香の監視の及ばないところで、過去に二度や三度、いや、もっと数多くの女性がらみの外泊を経験しているはずだ。
ましてや五つも年上の姉である自分が婚約者と一晩を過ごして何が悪いと、半ば開き直る。
すると、信雅からすかさず電話がかかって来て、これまたしおらしいことを言ってのける。
「おかんから連絡があったら、うまいことごまかしといたるから、俺にまかしとき。先輩もやるなあ……」 と。
最後の一言は余計だったが、それで終わる信雅ではなかった。
澄香の不安を煽るような不可解な取引条件を提示してきたのだ。
「俺は全面的に姉ちゃんに協力するから。安心しとき。それで、ちょっとお願いがあるねんけど……。こっちの望みも聞いてくれへんかな? 明日、車でそっちに迎えに行こ思てるねん。いや、それがな、どうしても先輩に会いたい言う奴がおるねん。だからそいつ連れて、うちの車でそっちまで行くから。それでもええか? 」
もちろん、澄香はいやと言える立場ではない。
というか、京都までわざわざ迎えに来てくれるという摩訶不思議な申し出を断る理由もない。
ある意味願ったり叶ったりの状況なのだが、それにしてもなぜ? どうして? と澄香の疑問は膨らむばかりだ。
宏彦に会いたい人って、いったい誰なのと聞いても、友達やの一点張りでなすすべもない。
そんな澄香の不安をよそに、宏彦は別にかまわないじゃないかと信雅の要望をすんなりと受け入れてしまった。
たったそれだけのことで澄香が今夜一晩一緒にいてくれるのなら、お安い御用とまで言って、彼女に擦り寄ってくる。
これが本当にあのあこがれの宏彦の姿なのだろうか?
彼がいつもの宏彦ではなく、別人のように見えたのが目の錯覚であることを、願って止まない澄香だった。
その後も、夕食もそこそこに、ずっと彼と抱き合っていたのだ。
にわかに信じられないような濃密な時が永遠に繰り返され、ようやく明け方に眠りについたと思えば、信雅からの電話で叩き起こされた、というわけだった。
「信雅。また近くまで来たら電話しろ。とにかく、鴨川沿いに北に上がればすぐにわかるからな。じゃあ」
そう言って電話を切り、トレーナーの袖で隠された澄香の手のひらにポンと携帯が載せられた。
「信雅、なんて言ってた? 」
「今、神戸から高速に入ったところだって」
「そうじゃなくて、京都まで来る本当の理由」
澄香は袖から指先をちょこんと出して、携帯をベッドの下のカバンにしまいながら訊ねる。
「さあ。何も言ってなかったけど……。多分……」
「多分? 」
「あいつ、女、連れてくるんじゃないかな」
「ええっ? 女? それってカノジョってこと? 」
「うん」
澄香は耳を疑った。そんなはずはないと。
確かに信雅が彼女を切らしたというのは聞いたことがない。
別れても次の月には新しい彼女がいるのだと風の便りで耳にしている。
つい先日、東京の有名女子大に通う彼女と別れたばかりのはずだ。
神戸に滞在中は、一切女性の影はなかったように見えたのだが。
「おい。何をそんなに考え込んでいるんだよ。ホントに気付かなかったのか? 先週の土曜日、澄香んちに行った時、信雅のやつ、そわそわしてただろ? 」
「えー? そうだった? いつもあんな感じだから、わかんなかったけど。じゃあ、あの子がコンビニで会った友達って、彼女だったの? 」
澄香はあの夜の宏彦と両親の会話をおぼろげに思い出す。
「あははは。あの話し、信じてたのか? それくらいわかってやれよ。あいつ、女のところに行ったんだよ。同級生か後輩か、はたまた年上の人なのか、誰かはわからないけど。神戸にいるんじゃないのか? 気になるヒトが……」
澄香は頭の中がぐるぐると回りだす。
信雅に神戸在住の彼女がいるなんて話は、今初めて聞く。
その彼女を連れて来ると言うのだろうか。
そして、姉を紹介するついでに婚約者も見せようと……。
そうか、そうだったのかと、ようやく合点がいった澄香は、目の前を覆っていた霞がスーッと晴れていくのを感じていた。
そうだとすれば、こんなことはしていられない。
早く支度をしなきゃと、ベッドから抜け出そうとするのだが。
「なあ、澄香。何もそんなに慌てなくてもいいだろ? 時間はたっぷりあるぞ。あいつが着くまでに一時間以上はある。だから……」
宏彦の腕が澄香の肩を抱き寄せる。
「また、一週間会えないんだ。今から……。会えない日の分まで、澄香が……欲しいよ」
「ちょ、ちょっと、ま、待って、宏彦、そ、それは……」
澄香の無駄な抵抗は……。
残念ながら、そこまでだった。