32.こんなに好きなのに その2
「何、すねてるんだよ。ここまで来てそれはないだろ? とにかく部屋に入ってから……」
そばまで来た宏彦が、澄香の腰に手を回しさあ行こうと誘いかける。
「いや。やめて。あたし、帰る」
澄香は身をよじり、その手を振り払った。
「……わかったよ。好きにしろ」
宏彦が天を仰ぎ、はあーとため息をもらす。
そして、階段を上り、自分の部屋に入っていった。
澄香は、呆然とその様子を見ていた。
帰ると言ったのは、まぎれもなく自分自身なのに、その場から一歩も動けない。
宏彦の部屋のドアから目が離せないのだ。
もしかしたらドアが開いて、彼がもう一度顔を覗かせるかもしれないのだ。
でも……。そんな都合のいい話があるはずもなく、ドアは固く閉ざされたまま動く気配を見せない。
とうとう本気で彼を怒らせてしまったのだろうか。
澄香はあーあ、とあきらめにも似た情けない声を出し、とぼとぼと歩き始めた。
不思議と涙は出ない。京都駅で泣き虫だと言われたのが、ショックだったのだ。
二度と人前で泣くものかとまで思ってしまうほどに。
宏彦にこれ以上弱みを見せたくなかった。
澄香は彼の理不尽な態度に抗議している今の状況を覆す気は全くなく、こうと決めたら、最後まで貫こうと意思を強く持った。
タクシーが通って来た道をもどり、大通りに出る。
ここなら、京都駅か、河原町方面に向かうバスが来るかもしれない。
ダメならば、またタクシーに乗ればいい。
突然びゅうっと吹き抜ける北風に身震いし、ジャケットの襟を立てる。
信雅のお下がりの少し大きめのこのダウンジャケットが、思いのほか役に立った。
そしてもう一度ひゅうーっと風が吹き、襟についていたフードが、かぱっと澄香の頭にかぶさった。
こんな偶然もあるものなんだと、急におかしくなって力なくふふっと笑う。
フードが風をさえぎってくれたおかげで暖かくなった頬に、そっと両手を添える。
そして、次の瞬間、フードを引っ張られるような違和感を覚え、背後に人の気配を感じる。
誰だろう。フードに何かついていたのかもしれない。
取ってくれたのなら、お礼を言わなければ……。
「あ、あの、何かついてましたか? 」
「この、意地っ張り。なんでここまで来て、おまえを帰さなきゃいけないんだよ。おい、なんとか言えよ」
後ろの誰かの方向に振り向く前に、目の前まで覆いかぶさっていたフードが急にはずされ、パッと視界がひらける。
そして顔の前に現れた親切な人物に釘付けになった。
「ひ、宏彦……」
目を細めた宏彦が澄香をさも照れくさそうに見下ろしているのだ。
「まさか、本当に帰っちまうとはな。ああ、負けた負けた。澄香には敵わないよ。本日はまだ、お姫様にコーヒーをお出ししていないんですけど。今から一緒にいかがです? 」
澄香は目をぱちくりとさせ、こくりと頷く。
すると、ふいに宏彦に抱き寄せられ、身体半分が密着したような形になった。
身を寄せ合ったまま、寮に向かってゆっくりと歩き始める。
宏彦が自分を追ってここまで来てくれたのだ。
いつもの笑顔を貼り付けて……。
澄香は高鳴る胸の鼓動だけを聞きながら、何も言わずに彼に寄り添って、部屋まで歩いて行った。
「宏彦……。ごめんね。あたし、どうかしてた。なんで帰るなんて言ったんだろう。あなたが止めてくれるって心のどこかで期待していたのかもしれない。宏彦に甘えていたんだよね、きっと……」
玄関でデニムに重ねるようにして履いていたブーツを脱ぎながら、身体を支えてくれている宏彦を見上げて言った。
「俺もどうかしてたよ。澄香に会いたくて会いたくて。夕べはあまり眠れなかったくらいなのに」
「宏彦……」
やっとブーツを脱ぎ終えた澄香が、玄関を入ってすぐのところで宏彦と向き合う。
「まさか、本当に帰ってしまうなんて思いもしなかったから。すぐに追って来るだろうと思って、気軽に部屋に入ったんだ。ところが、待てど暮せど、澄香は来ない。下を見れば、もうどこにも姿がないし。マジで焦ったぞ」
「ごめんなさい……」
「そりゃあ、今朝のあの男のことは嫌だった。あの男、まるで俺を挑発するかのように、澄香と親しげに話していた。いったい、何なんだ。澄香に何かしたら、すぐにでもあの男とやりあうつもりだった。俺にはわかるんだ。あいつも澄香に気があるってな。もしかして、昔、付き合ってたのか? 」
宏彦の目が真剣みを帯びてくる。
「そんなことない。絶対にない。ただの、先輩……だよ」
「そうか。なら、向こうの一方的な思いか。まあ、そんなことはもうどうでもいいが。とにかく、澄香の口からあいつの名前を聞くのも許せないくらいに、イライラした。俺がこんなに嫉妬深いとは、自分でも気付かなかったよ。でもな……。早く澄香と、こうしたくて……なんて口が裂けても言えないだろ? 」
澄香はそのまま宏彦に抱きしめられ、玄関横の壁に押し付けられる。
宏彦の潤んだ目が、澄香を捉えて離さない。
次第に顔が近づいて、澄香の唇を覆い尽くした。
澄香はもうためらわなかった。
宏彦の問いかけにすべて応えようと思った。
長い長い口付けのあと、彼の首に腕を回し、耳元で、好き……とささやいた。
「澄香……。いいのか? 」
宏彦の熱い吐息が澄香のうなじをくすぐる。
澄香はうんと頷き、宏彦の胸に顔をうずめた。