31.こんなに好きなのに その1
「ねえねえ、宏彦」
「ん? 」
「あたしさ、清水寺って、あんなに広いとは思わなかった」
「そうか? 」
「だって、前に行ったのは、小学校の低学年の時だったんだもの。よちよち歩きで、すぐにどこかにいっちゃう信雅を探してばかりだったから、お寺のことなんかあまり憶えてなかったんだ」
澄香は南禅寺近くの店で、湯豆腐をすくいながら向かいに座っている宏彦に話しかける。
「大学時代にね、いろいろな地方の友達が言ってたんだけど、学校の修学旅行で、京都に行くパターンが多いんだって。あたしたちの住んでるところからだと、京都って、修学旅行には近すぎるし、遠足にはちょっと遠いし。なんか中途半端なんだよね。結局、京都には、学校からはあまり行かなかったんじゃないかな」
「ああ」
「あっ、そうだ。そういえば高校の時、嵐山に行ったっけ? 確か班行動だったよね。嵯峨野あたりも散策したような気がする」
「うん」
「何年生だった? 一年だったかな……。いや、二年? 鬼クロがいたから、やっぱ、二年かな? 」
「ああ……」
「タレントショップなんかもあって、おもしろかったよね? 」
「ああ……」
「ねえ、宏彦? 」
「うん……」
「…………」
澄香は、ああとうんしか言わない目の前の男をじっと見る。
京都駅で四日ぶりに会ってバスで清水寺に向かい、三年坂や二年坂を歩いて、南禅寺をぶらぶらして……。
今は湯豆腐の専門店で遅めの昼食タイムだ。
日曜日も月曜日も。そして火曜日も。
宏彦はこぼれんばかりの笑顔を振りまきながら、いろいろな話をしてくれた。
もちろんメールのやり取りで大体の事は聞いていたが実際に彼の口から聴くそれはまるで初めて知るかのように新鮮な話ばかりだった。
イギリスに滞在していた時に、ヨーロッパ各地を旅行したことや、昨年出張で行った東南アジアの国々の話はより一層興味深いものだった。
ベトナムには是非とも行ってみたいと思ったくらいだ。
なのにたった数日でこの態度とは、いったいどういうことだろう。
まださっきの福永先輩のことにこだわっているのだろうか。
嫉妬してもらえるのは、ある意味嬉しいことでもあるのだが、この状態が今日一日続くのだとすれば気が滅入ることこの上ない。
楽しくないのならそう言ってくれればいいだけだ。
「何? もう食わないのか? 」
ようやく澄香のじっとりとした視線に気付いたのか、宏彦が怪訝そうな顔を向ける。
「だって……。宏彦が冷たいんだもん。さっきからあたしばかり、しゃべってるし」
「別にそれでいいじゃないか。俺はちゃんと聞いてるんだから」
「ホントに聞いてる? そうは思えないけど」
「嵐山がどうとか言ってただろ? ちょっと遠いけど、銀閣寺はやめて、そっちに行こうか? 澄香が行きたいならそれでもいいぞ」
「ほら……。やっぱり聞いてないし」
澄香はふうーっとため息をつき、箸を置いた。
目の前の鍋の中で、豆腐の破片が右へ左へと揺れる。
それはまるで今の澄香の心の中のを現しているかのように落ち着きなく動き回っているのだ。
「おまえ、何が言いたいんだよ。食わないのならもう出るぞ」
「ねえ、宏彦。あたしといて楽しくないのなら……。今日はもう、ここまでにしようよ。無理して、その、デートしてくれなくてもいいんだし。お母さんに頼まれてた七味も買ったし、信雅の意味不明なリクエストのめがねケースも、西陣織のいいのを見つけたし……って、ちょっと、何するのよ! 」
澄香は突如宏彦に腕を掴まれ、出るぞと促される。
食事代を払う時も、タクシーを呼び止める時も、彼の冷ややかな目つきは変わらなかった。
宏彦が乗務員に告げた行き先は、寮の住所だった。
澄香ははっとして宏彦の横顔を見るが、彼は真っ直ぐ前を向いたまま何も言わない。
そっと瞼を閉じ、そのまま宏彦と一緒にタクシーの中で沈黙し続けた。
タクシーを降りた後も、彼は黙ったままだった。
先にすたすたと階段を上っていく宏彦を目で追いながら、澄香はその場に立ち止まった。
「おい。早く来いよ」
宏彦が途中で振り返り、動かない澄香を呼ぶ。
「あたし……。今日はもう、帰るよ」
「はあ? なんで? 」
宏彦は意外にも、そんな返事は全く予想していなかったという目をして、澄香に訊ねる。
「だってこんなの、どこか違うし。あたし、あたし……。今日のこと、すごく楽しみにしてた。今日、あなたに会えるのが待ち遠しくて。それだけを思って、仕事もがんばってきた。でも、これじゃあ、辛いだけだよ。だって宏彦はちっとも嬉しそうじゃないんだもの」
「信雅のめがねより、よっぽど澄香の方が意味不明だ。ごちゃごちゃ言わずに来いよ。こんなところ、会社の人に見られたらどうするんだ。な? そうだろ? 」
宏彦が寮全体を見渡すように眺めて言った。
「あたしのこと、会社の人に知られたらまずいの? 」
「そんなこと言ってない。ここで言い争ったって、どうにもならないだろ? いいから早くしろよ」
「やっぱり帰る」
もうだめだった。宏彦が何を言っても素直に聞けない自分がいた。