30.昔のヒト その2
「澄香……」
その声は澄香の真後ろから聞こえた。
「ひ、宏彦。なっ、なんでそんなところに? 」
振り返り、彼の正面に立ち向き合った。
「ここにいたら、悪いか? 」
「悪くは……ないけど。急にいなくなっちゃうから、びっくりしたよ」
本当に肝を冷やした一瞬だった。
なかなか先輩から離れない澄香に嫌気が差して、寮に帰ってしまったのかと思った。
「さあ。行こう。なかなか待ち合わせ場所に来ないから、もしやと思って、こっちに来てみたんだ」
宏彦の声がどことなくよそよそしい。
やはり先輩と一緒だったことが気に食わないのだろうか。
「ごめんなさい。駅があまりにも広くて、迷っちゃった」
澄香は謝りながら、そっと隣の宏彦の様子を見てみた。
全く無反応だ。顔色一つ変わらない。
やはり、気分を害してしまったのかもしれない。
「宏彦。さっきの人だけど」
それでもめげずに、自分の無実を証明するために話し続ける。
「大学の、先輩なんだ。偶然、新幹線の乗り場近くで会っちゃって。あたし、先輩の顔も忘れてたくらいでさ……」
「清水でいいのか? 他に行きたいところは? 」
「宏彦……」
うるさいと言わんばかりに澄香の言葉をさえぎり、とげとげしく行き先を確認する。
宏彦は怒っている。完全に不機嫌モード全開だ。
「ねえ、宏彦。あたし、何か気に障ること言った? だったら謝るから。怒らないで……」
バスターミナルに差し掛かったところで立ち止まり、宏彦に許しを請う。
「おまえ、何勘違いしてるんだ。俺は怒ってなんかいないぞ。澄香こそ、後ろめたいことでもあるのか? 」
澄香はただ首を横に振ることしかできない。
「大学の先輩? 顔も忘れてた? 聞いてあきれるよ。少なくとも向こうが澄香を見る目はそうじゃなかったが。ごまかすのもいい加減にしろ」
宏彦が語気を強める。これのどこが怒っていないと言うのだろう。
澄香は返す言葉が出てこない。
学生の頃、福永のことはメールで話題にしたことはあったが、あくまでも他のサークル仲間と同等の扱いだったはずだ。
プロポーズされたなどとは一切言っていない。
なのに、さっきのあの瞬間だけで、宏彦が何かを見抜いたのだとしたら……。
澄香の脳裏に危険を知らせる信号音が鳴り響く。
どうしてあんな風に立ち話なんかしてしまったのだろう。
あいさつだけして、すぐに立ち去ればよかったのだ。
段々、鼻の奥がつんとしてくる。
そして、わけもなく涙が込み上げてきて……。
こんなのは卑怯だとわかっている。泣けば済むと思ってるわけじゃない。
でも、言葉で説明できないもどかしさが、涙に代わってあふれ出てしまうのだ。
一粒流れ落ちると、もう止められなかった。
「お、おい。泣くなって。なあ、澄香。なんだっていつもすぐに泣くんだよ。子どもの頃はちっとも泣かなかったのに」
そりゃあそうだ。
小学校の高学年から中学、高校にかけては卒業式以外は人前で泣いたことなんかない。
でも今年になって、いったいどれだけの人に泣き顔を見られたことか。
大人になるほど泣き虫になるなんて話は聞いたことがないが、確実に涙もろくなっている。
澄香は指先で涙を拭い、無理やり笑顔を作る。
「だ、だって、勝手に、涙が出ちゃうんだもん。宏彦が、あたしの話も聞かずに、ひとりで、怒ってるから……」
時々ぎゅっとなる胸を押さえながら、なんとかそれだけ言った。
「わかったから。勘弁してくれよ。みんなが見てるぞ。だからもう泣くな」
澄香はこくこくと小刻みに頷いた。
修学旅行生のおもしろおかしそうな視線がこちらに注がれているのには、すでに気付いていた。
でも、もう泣くまいと思うのに、勝手に涙がこぼれてしまうのだ。
「俺が悪かった。じゃあ、ひとつだけ言わせてもらう。もう、さっきの奴の話しはするな。それくらいわかれよ。いいな? 」
「うん。宏彦が、そうして欲しいって言うなら……」
澄香は納得したわけではなかったが、とにかくこの場を収めるにはそうするしかないだろうと判断し、宏彦の要望を呑むことにしたのだ。
「早く行こう。こんなところで時間食ってたら、今夜、神戸に帰せなくなる」
つっと伸ばしてきた彼の手に、ためらいがちに自分の手を忍び込ませる。
まだ数えるほどしか繋いだことのない手だけど、その手はいつも大きくて、澄香を優しく包み込んでくれるのだ。
「地下鉄だと何も見えないからな。時間はかかるけど、バスの方が市内が見れるし、その方がいいだろうと思って」
相変わらずむすっとしたまま、つっけんどんに話す宏彦だったが、繫いだ手はとても温かく、優しく澄香をエスコートしてくれる。
五条方面を通る路線バスに乗り込むと、澄香はその嫉妬深い恋人の肩にそっと頭をもたせかけた。
彼がふっと微笑みかける。
宏彦、ごめんね。あなたの気持ちなど何も考えていなかった自分の至らなさが恥ずかしい。
この気持ちが伝わるよう、心を込めて彼の手をぎゅっと握る。
バスの窓から京都の町並みを眺めながら、彼と通い合う気持ちのありかを確かめていた。