25.実る恋、実らぬ恋 その1
「澄香。今日は絶対に、帰さないわよ! 」
時計を見ると、きっちり五時四十分。
会社を出てほんの十歩ほど歩いたところで、澄香の左手はチサの右手にあっさりと捕獲された。
「昨日も、一昨日も。いったいどうしたっていうの? せっかくみんなでバレンタインデーの結果報告をしようって、いつものケーキショップに集まったっていうのにさ。澄香ったらさっさと帰っちゃうんだもん」
「ち、チサ。ごめん。だからさ、その……。ちょっと用が……」
「用? 何の用事よ。それとも、あたしやミユキの話なんて聞けないとでも? 」
「そ、そんなことないよ。ホントに用事が……あったの」
澄香は滅相もないと首を横に振る。
だって本当に一世一代の用事があったのは事実なのだから。
チサの視線が尚もまだ、澄香の真意を探るように縦横無尽に駆け回る。
「で、今夜も今から、その用事なわけ? 」
「今夜は……ないよ。家に帰るだけ……」
その答えを確認するや否や、チサの左手が器用に携帯を操る。
「これでよし。ミユキにのっち、稲川君も呼んだから。さあ、行くわよ」
澄香の手を掴んだまま、チサがぐんぐん歩き出す。
「ちょ、ま、待ってよ。行くって、いったいどこに行くの? 」
「やよい。澄香も行ったことあるでしょ? 」
「あ、ああ。あそこね。いいわよ」
断る理由はない。澄香は後ろ髪を引かれつつも、チサの後に続いた。
日曜日にあの騒動があって、今日で三日目。
そのことはまだ、チサに言っていない。
隠しておく必要はどこにもないのだけれど、タイミングが合わないというか、少しだけ耳にしたチサと仁太との思わしくない結果に胸を痛めていたというか……。
とにかく、まだ誰にも知らせていないのだ。
自分だけ幸せになったなどと、口が裂けても言えないではないか。
澄香は昨日も一昨日も、仕事が終わった後に宏彦と会っていたのだ。
八時ごろなら梅田で会えると彼が都合をつけてくれたため、いそいそと足を運んでいたと言うわけだ。
次の日もお互いに仕事があるので、食事をしてお茶を飲んで……。
十時にはそれぞれの方面への電車に乗り帰宅するというあわただしいデートだった。
けれど、付き合ってまだ間のない二人には、それでも楽しくて仕方なかったのだ。
澄香は、たとえ五分しか会う時間がないとしても、労力を惜しまずどこにでも出向く自信があった。
今日からは残業が続くので、土曜日までは会えないと言われた。
それでも早めに家に帰って、すべての準備を整え、宏彦からの電話を待とうと決めていただけに、やよいでの集まりが長引いたらどうしようと不安になるのだ。
「ねえねえ、チサ。今からやよいに行けば、九時くらいには帰れるよね? 」
「うーーん、どうかな……。盛り上がったら、そのままカラオケってのもアリかも。って、澄香。何だってそんなに付き合い悪くなっちゃったのよ」
「そんなこと、ないってば。あたしは、その、いつも通りなんだけどね。チサの思い過ごしだって」
「んもう、澄香ったら、なんかへらへらしてない? そりゃあ、以前からあたしたちが誘わない限り、真っ直ぐ家に帰る箱入りお嬢様だったけどさ。でも、時間のこととかあまり気にしたことなかったじゃない。まさか、家の人に門限とか言われちゃった? 二十四にして、それってちょっと厳しくない? 」
澄香はそんなことないないと、顔の前でパタパタと高速で手を振り否定する。
「なら、そんなこと言わないで。たまには付き合いなさいよ。あたしの最悪話でも肴にしてさ」
チサの顔がたちまち曇っていくのがわかった。
まだのれんを表に出したばかりなのだろうか。
誰も客はいなかった。
風味豊かなだしの香りが、澄香の空っぽの胃をくすぐる。
「どーも。やよいさん、お久しぶり。あとで三人来るんだけど、奥の座敷、使わせてもらってもいい? 」
「あら、畠元さん。お元気そうで。どうぞうぞ、どこでも使ってくださいね。今日は平日やし、予約も入ってへんから」
そして澄香を見て、にっこりと笑みを浮かべ会釈をする。
この前もお会いしましたねといわんばかりの笑顔だ。
先月仁太と一緒に来たのを憶えていたのだろう。
二人が座るより早く、目の前に小鉢とグラスが並び、湯気の立つおしぼりを手渡される。相変わらず手際がいい。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう言ってやよいは、カウンターの方に戻っていく。
そして、チサと向かい合わせに腰を下ろしたとたん、気になっていたことを訊ねた。
「ねえ、チサ。チサもここによく来るの? あたしは前に吉山君に連れてきてもらったのが初めてだったんだけど」
「ははーん。あいつ、まるで自分がここの常連のように言ってたんじゃない? ここはね、あたしの元カレに教えてもらった店なの。まあ、元カレは青森に転勤になったから、ここで鉢合わせする心配はないんだけど。それで、カレと別れた後、澄香のことで悩んでいる吉山君を連れてここに来たら、えらく気に入っちゃってね。それ以来、連日入り浸ってる時もあったみたいよ」
「へえ。そうだったんだ。チサったら、こんないいお店知ってて、なんであたしに教えてくれなかったのよ」
水臭いチサに、ちょっとだけすねて見せた。
「だってさ。元カレとうまくいってた時は、二人だけの神聖な場所って感じだったし、なんだか言い出しにくくて。なのに。あいつ。吉山君ったら、澄香も連れてくるし、その後、会社の後輩の女の子たちも何人か連れて来てるんだよ。澄香までは許すとしても、それ以外はNGなんだから。あたしの神聖な領域を侵されたような、嫌な気分なの。だからさ、こうなったら皆にオープンにしようと思って、今夜は皆を誘ったんだ。彼だけに大きな顔をさせておくの、悔しいじゃない」
チサの攻撃的な態度を見れば一目瞭然だ。
バレンタインデーに相当嫌な思いをしたに違いない。
これではますます宏彦との結婚話を持ち出せそうにない。
ならば……。本日は聞き役に徹しようと決心した。
「そうだね。こんなにいいお店、内緒にしておくのはもったいないよ。あたしも家族に教えてあげようかな」
「何言ってるの。澄香の家族は、お母さん以外、神戸にいないじゃない。そうそう、京都のカレ。あの人に教えてあげれば? そのことも気になっていたんだよね。今週には札幌から京都に帰ってくるんじゃなかったっけ? 」
澄香は、あの形に口を開けたまま、固まってしまった。
確かに予定では、今週初めに京都に戻ってくることになっていた。
遅れてでもいいから宏彦にチョコをあげるべきだと、チサにアドバイスされていたのを思い出す。
もちろん、チョコはまだ渡しそびれたままだが。
「澄香ちゃーーん。あれ? どうしたの? 」
澄香の目の前で、チサの五本の指がちらちらと上下する。
「ちゃんと会う約束した? カレ、話があるって言ってたよね? 」
「あ、ああ、あああ」
「もうっ、澄香ったら。どうしちゃったのよ。しっかりしてよ。で、カレは? 帰って来たの? 」
「う、うん。多分その。帰ってきたかと……」
聞き役に徹するはずだったのに、いつのまにか状況が逆転してしまった。
これ以上訊かれると、真実を全部話さなきゃならない。
困った、困った。
「多分って、どういうこと? メールしてるんでしょ? 」
「それはそうなんだけど。でも、その……」
「そっか……。やっぱり、進展なしなんだ」
完全に宏彦とのその後を誤解したチサが、澄香を気遣ったのか、次第に語気を弱める。