24.春の風 その2
「おまえがそこまで言うのなら。二人を信じよう。……もう寝る」
「お父さん……」
「また連れて来なさい。今度は二人でゆっくりと話してみたい……」
そう言って、すたすたと階段を上り始めた。
「お父さん、ありがと。それと信雅のこと、あまり叱らないでね。あの子はあの子なりに、あたしのことを心配してくれてたみたいだから」
澄香は父の背中に向かって言った。
父はちらっと後を見ただけで、何も言わず、そのまま寝室のある二階に上がって行く。
「澄香、よかったわね。おめでとう」
「お母さん……」
父が寝室に入ったのを確認して、母が澄香の肩にそっと手を載せ微笑む。
「好きな人と心を通わせて結婚できるなんて、これ以上の幸せはないわ。澄香が宏彦君のことをそこまで信じているのなら、私はもう何も言わない。あなたの幸せを祈るだけよ。私たちがとやかく言うべきではないのもわかってる。ただ、お父さんも私も、澄香が幸せになることだけを願っているの。少しでも不穏な部分が見え隠れするなら、今の内にすべてを明らかにしておかなければ取り返しがつかないことになるしね。それが娘のあなたにとっては重苦しく感じるのかもしれないけど。これだけは信じて欲しいの。澄香の選んだ道を邪魔しようなんて全く思ってない」
「お母さん。あたし……」
「ほらほら、そんなに深刻そうな顔をしないで。だって、あまりにも唐突過ぎる結婚話だったじゃない? それもよく知っているお相手だし。今日まで二人のことを家族に何も話せなかっただなんて、何か裏事情があるって思うのが普通の感覚だと思う。違うかしら? 」
「そうだと……思う」
母親の言い分は最もだ。反論の余地はない。
「お父さんも私も、突然降ってわいた澄香の縁談に戸惑っているだけ。って、そうそう、大きな声で言えないけど、お父さんもああ見えて、昔は情熱的だったのよ」
母に促され、再びリビングに戻った。
あの父が情熱的だった? 澄香は世にも不思議な話に思わず耳を傾ける。
「お父さんの百倍くらい頑固者だった私の父に、五回も頭を下げて、やっと結婚を許してもらったの」
「えっ? ご、五回も? あの優しかったおじいちゃんが、そんなに厳しかっただなんて、信じられないけど」
初めて聞く両親の結婚の経緯に、驚きを隠せない。
どことなく気恥ずかしいが、父と母にもそんな時代があったのだと知り、不思議な気持ちになる。
それにしても、今は亡きあの温厚で思慮深い祖父と父が結婚にあたってもめた話など、初めて聞く。
「そうよ、五回も! 後にも先にも、父があそこまで感情を露わにしたのは、あの時一度きりだったわ」
「そうなんだ……」
「実はこう見えて、私とお父さんは、あの当時、結構大恋愛だったのよね。うふふ。今のいばりんぼのお父さんからは、想像もつかないでしょ? それに比べれば、今夜はあっけないくらい簡単に話が決まっちゃったわね。お父さん、きっと、宏彦君のことが気に入ったのよ」
「そうだといいんだけど」
自分の好きになった人を親に受け入れてもらえることほど幸せなことはない。
「大丈夫。お父さんは人を見る目だけはあるみたいだし。いろいろ言ってるけど、本当は嬉しいのよ。お父さんはエンジニアだけど、宏彦君の仕事の話なんかも、興味があるみたいではずんでたしね。ねえねえ、澄香……」
母が急に澄香に顔を近付け、声のトーンを落とした。
「宏彦君って、見れば見るほど、いい男だわね。信雅にはない、気品ってものを感じるわ。素敵な人とめぐり合えて、本当によかったわね。さあ、澄香、ここの片付けはもういいから、お風呂に入って早く休みなさい。夕べもあまり寝てないんでしょ? 」
「うん。でも、まだ洗い物も残っているし」
「いいから。さ、早く行きなさい。彼から電話がかかってくるかも。いいわね、若いうちは。ふふふ」
そう言って、母が陽気に後手を振る。
一時はどうなるかと思ったが、取りあえずは事なきを得て、ほっと胸を撫で下ろした。
すべて経験済みの親には、到底敵わない。
人生の先輩として、ここは逆らわずに、真っ直ぐに彼らの言動を受け止めるのが懸命だと悟った。
澄香はゆっくりと湯船につかり、長かった今日一日を振り返る。
泣いたり笑ったり驚いたり、そして、悔しがったり、ほっとしたり。
人間の持っているすべての感情を使い果たしためまぐるしい一日に驚嘆しながらも、幸せな気分に包まれる。
宏彦はこの春に寮を出ると言っていた。
ということは、年内に結婚出来るのかもしれないのだ。
チサに話したらどんな顔をするだろうか。
マキは? そうそう、斜め向かいの早菜ちゃんもびっくりするだろうな。
澄香の心の中には、誰よりも早く暖かい春の風が吹き始めていた。
髪を乾かし、温かいミルクを飲んで、ベッドにもぐりこんだ。
布団にくるまりながら、ついさっき届いたばかりの宏彦からのメールを読む。
短い文章の最後には、これまでになかった文字がひっそりと並んでいた。
愛しい澄香へ……と。
澄香は胸の奥がずんとうずくのを感じた。
携帯を握り締め、幸せをかみしめる。
そして、返信をしようと携帯を開いたその時、冷たい汗が背中を伝うのに気付いたのだ。
昨日は、バレンタインデーだった。
でもその時はあまりにも突然に訪れたため、当然宏彦に渡すことは出来なかった。
ならば一日遅れでもいい。
今日こそは、プレゼントしようと密かに決めていたのに。
なのに、なのに……。
「今日……。宏彦に、チョコレートあげるの。忘れたよ……」
もちろん、チョコレートを買ってもいない。
澄香はむくっと起き上がり、机の上の時計を見た。もうすぐ日付が変わる。
二月十六日になってしまうのだ。
本日一番のイベントになるはずだった一日遅れのバレンタインデーが実行できなかったことを悔やむ。
一面ピンク色だった心の中が急激にグレーに変わるのを感じながら、がっくりとうな垂れた。