23.春の風 その1
澄香視点になります。
「澄香。ここに来て座りなさい」
台所で夕食の片付けを手伝っていた澄香は、泡だらけの手をすすぎながら、首をかしげる。
「早く。お母さんも一緒に来なさい」
隣で食器を拭いていた母も、えっ? と怪訝そうな顔をして、布巾を置いた。
さっきまで賑やかだった池坂家も、今は少し不機嫌そうな父の声しか聞こえない。
澄香は母親と顔を見合わせ、はあーーとため息をつき、父のいるリビングのソファにしぶしぶ腰を沈めた。
「澄香」
宏彦が追加のビールを買いに行った後、ピタッと飲むのを止めた父親は、普段と変わらない顔をして、澄香の名前を呼んだ。
「おまえには失望した」
えっ? 何て?
澄香は父が突如発した言葉に耳を疑った。
いったい、何に失望したというのだろう。
もしかして、今ごろになってやっぱり結婚には反対だなどと言うつもりなのだろうか。
緊張がよぎる。
「何で、こんなに大事なことを今まで黙っていた。宏彦君と、ずっと、その、付き合っていたそうじゃないか」
父は腕を組み、言いにくそうに、そう訊ねた。
「お父さん。違うってば。さっきも皆がいる時に言ったじゃない。メールだけの付き合いだったって……」
「メールだって、十分に付き合っている証拠だろ? お父さんが若い頃は、手紙のやり取りが定番だった。それだけでも、十分に気持ちは伝わる。今の時代はそれがメールに変わったというだけだ」
「そうかもしれないけど……」
父は何が言いたいのか。
澄香は父の心情を読み解くべく、その一言一言に集中した。
「ホント、お父さんの言うとおりだわ。澄香ったら、何も言ってくれないんだもの。私が何度訊いても、付き合ってる人は誰もいないの一点張りでしょ? 宏彦君なら全く知らない人ってわけでもないんだし。ちょっとくらい教えてくれてもよかったのに」
ねえ、お父さん……と反旗を翻したように父に加担する母の視線が痛い。
お母さんは、あたしの味方だって言ったじゃない……。
澄香の心は不安でぐらぐらと揺れ始めた。
「だから本当に、彼とは付き合ってなかったって言ってるでしょ? 今日、初めて……。そ、その、プロポーズされたんだし」
「な、何? そうなのか? 前からそのつもりだったんじゃないのか? あいつ……。おいっ、信雅はまだ帰って来ないのか? 」
隣に座る母親を責めるように訊ねる。
「まだですよ。コンビニで昔の友達に会ったって、宏彦君が言ってたじゃない。まあ、あの子も久しぶりにこっちに帰って来たんだから、多めに見てやりましょうよ」
「ったく、信雅のやつ。嘘ばっかり言いやがって。何が、姉ちゃんたちはずっと付き合っていた、だ! 」
「あの子の口車に乗せられたお父さんもお父さんよ。話半分に聞いておかないと」
どうも信雅が、父に何か虚偽を告げたようだ。
「あいつ、俺から金をせびる材料に、澄香のことをいろいろ吹き込んだんだ。使いに出したらどこかに消えてしまうし、女にはだらしない。なんてやつなんだ」
父は腕を組んだまま、むすっとして、ソファにもたれかかった。
「ねえ、お父さん。信雅が何を言ったのか知らないけど。あたしは、嘘は吐いてない。デートだって、その……。今日が初めてだったんだから」
「何だって? それじゃあ、何か。初めてでいきなり結婚の話って、どういうことなんだ。常識的に考えてみろ。おかしいだろ? まずはお付き合いさせて下さいと言うのが筋じゃないのか? 顔がいいとか、大きな会社に勤めてるとか、お父さんはそんなことに騙されないぞ」
じろっと睨まれた澄香は、答えに詰まる。
もちろん彼女自身もこのようなスピード展開に初めは驚いた。
夕べようやくお互いの気持ちを確かめあったばかりで、いきなり結婚と言われてもぴんと来るはずもなく。
父の言うとおり、無謀でありえない話だと思ったのも事実だ。
でも、宏彦に真っ直ぐな気持ちをぶつけられたとたん、迷いはすべて吹っ切れたのだ。
自分たちにはそれを決断できるだけの歴史がちゃんとある。
高校時代からお互いを想い合っていたわけだし、六年間のメールは二人の絆を深めるには十分だったのだから。
「お父さん……。前置きもなくこんなことになって、悪かったとは思ってる。でも、でも……。あたしは、加賀屋君、いや、宏彦のことが好きなの。高校の時からずっと好きだった。彼もそうだって言ってくれた。だからお願い。結婚がだめだなんて言わないで」
「別にダメとは言ってない。ただ、順序がなっとらんと言ってるんだ。それにどうも引っかかる。そんなに好きなら、なんでもっと早く付き合わないんだ。おまえ、宏彦君に、都合よくあしらわれているんじゃないのか? 」
「そうよね。私も、それは思ったわ。今朝出掛ける時、宏彦君が言ってたでしょ? 事情があって大っぴらにできなかったって。それって、つまり……。言いにくいんだけど。宏彦君、別の女のヒトでもいたんじゃないの? 違う? 」
澄香は唖然として、言葉が出なかった。
別の女の人って……。そんなこと、あるはず……ない。
ないに決まって……いる。
絶対に。
いや、多分。
でも。
過去に百パーセントそんな事実はなかったと断定できないのが澄香の辛いところだ。
宏彦に過去の恋愛話は聞いていないし、これから聞くつもりも全くない。
いくら宏彦が澄香のことをずっと想ってくれていたとしても、実らないとわかっている恋であれば、他の女性に心が傾かなかったとは言い切れない。
そもそもこうなった一番の理由は、宏彦サイドの問題ではなく、澄香と木戸の曖昧な関係が発端なのだ。
木戸との友情を大切にしていた宏彦に罪はない。
「あたし、宏彦の過去の恋愛は、知らない……。そんなのどうだっていい。大っぴらに出来ない理由って、そういうことじゃないの。それは、その……」
「言いにくいことなの? なら無理に言わなくてもいいわよ。ただ、私とお父さんは、澄香のことが心配なのよ。宏彦君が悪い人だとは言わないわ。別の女の人が絡んでなければ、それでいいのよ。きれいに関係が切れてるなら……」
「お、お母さん。何言ってるの? あたしだって、彼のことを四六時中監視したり出来ないし、そういうことが全くなかったなんて断定は出来ない。でもね、少なくとも今は何もないから。別の女の人なんているわけないじゃない。彼がそんな人に見える? あたしはお父さんとお母さんの娘だよ。石橋を叩いても渡らないくらいの人間だよ。そんなあたしと結婚したいって言ってくれる宏彦が、周りの皆を裏切るはずがないでしょ? 」
父が組んでいた腕をはずし、のっそりと立ち上がる。