22.案外そばにいたりするものらしい その2
「それがな。先輩は、仕事の都合で京都に住んでるねん。今夜はこっちに泊まるかもしれへんけど、明日はもう帰ってこーへん。忙しい人やから、捕まえるの結構大変やねん」
「京都か。そらあかんわ……。って、余計に結婚反対! 京都って、ここから遠いやん。お姉ちゃんがそんなところに行ってしもたら、神戸に帰って来たとき会われへんし。ますますいやや」
床に置いてあるテーブル代わりのカラーボックスに肘をつき、すっぴんの早菜がめいっぱい膨らませた頬を両手で支え、信雅を睨みつける。
その瞬間、彼女の手がフレームに当たり、めがねがポトンと下に落ちた。
「あじゃーー。やってもた。なんか、このめがね、顔に合わへんのよね。大きすぎるんかな? 」
そう言いながらめがねを拾い上げ、目の近くに寄せて、ちょうつがいのネジが緩んでいないか上下方向から確かめていた。
早菜が下を向いた時、肩までのさらさらの髪が、彼女の顔半分を覆い尽くした。
それが邪魔なのか、髪をかき上げ、耳にかける。
しばらくするとまたパラパラと落ちてきて、もう一度耳にかける。
時折覗き見る早菜の真剣な横顔がまぶしくて、つい目を逸らしてしまった。
細くて小さい手が、その髪に触れるたび、信雅の心臓がありえないほど心拍数を上げるのだ。
「ちょっと貸してみ」
信雅がめがねを取り上げ、フレームをたたみ、上着のポケットに入れた。
「ちょ、ちょっと。あんた、何するん。返してよ、あたしのめがね」
「あのなあ、早菜ちゃん。めがねもええけど。今のその顔。案外ええで。まあ、お世辞にも美人とかはよう言わんけどな。そこそこやで」
「ノ、ノブ君。何言ってるん。ノブ君が変になった」
「そうや。俺、変になってしもた。目も小さいし、鼻も小さいし、口も普通や。いっこもかわいくない。それがおまえや」
「ひ、ひどーっ。人の欠点、そこまで言う? この目がいややから、めがねかけてんのに。お姉ちゃんみたいなぱっちりした目やったら、とっくにコンタクトに……してんのに……。あたしは、顔がこんなんやから……。特徴も何もなくて、かわいいなんて言われたこともなくて。こんな自分が嫌やから……。だから勉強だけは誰にも負けんとこと思ってがんばった。それやのに。なんで、あんたにそんなこと言われなあかんの? 帰って。もう帰って! ノブ君のあ……」
早菜の唇が、ほの形になったところで、信雅の顔が重なった。
軽く唇が触れ合う。
そして離れた。
「ノ、ノブ君……。なんでこんなことするん? 」
早菜が唇に指をあてて、信雅をじっと見る。
「あたしはいったい、あんたの何なん? 今まで黙ってたけど、もう我慢できひん。失恋するたびあたしに泣きついてきて。いつも同じことばかり繰り返して。おまけに、こんな思わせぶりなことまでして……。ちゃんと説明して。今のき、キスは、何やったん? ねえ、何なん? 」
「ご、ごめん。そんなに怒らんといてえな。でも今のキスは思わせぶりでも何でもない。気がついたら……しとった。自分でもようわからんけど」
「そんなん、全然説明になってへんやん。結局、ノブ君は、誰でもええんや。たまたま今夜はあたしがそばにおったから、そんなことしただけなんや。ね? そうでしょ? 」
「それは違う。おまえやなかったら、そんなことしてへん。おまえやからしたんや。そうや。ほな、こうしよ。今後一切、合コンも行かへんし、ナンパもせえへん。言い寄られても、誰にもなびかへん。これやったらええ? 俺の言うたこと信じてくれる? 」
「それやったら、別に、ええけど……。ホンマに約束してくれるん? 」
早菜が頬を染めて、うつむく。
「約束する。今まで、ホンマに悪かったって思てる。さっきもな、先輩に言われたんや。誰か会いたい人、おるんちがうかって。俺の行くとこ、ここしか思い浮かばへんかった」
「そ、そうなんや」
「もう、今夜はこれで帰るわ。先輩に会える日が決まったらメールする。じゃあな」
自分がどうしてあんなことをしたのか、本当にわからなかったのだ。
でも、早菜に何の前触れもなく突然胸がときめいたのは隠しようのない事実だった。
もしかしたら、姉と先輩の甘い姿を見せつけられたせいで、思考回路がおかしくなってしまったのかもしれない。
これはさっさと家に帰って、頭から冷水でもかぶった方がよさそうだ。
信雅が階段を下りかけた時、早菜の呼び止める声が聞こえた。
「ノブ君。ちょっと待って! さっきのん、どういう意味? あれって、あたしをくどいたん? ねえ、ノブ君。どうなん? 」
「そんなもん、俺にもわからへん。とにかく、今後は態度を改めるから。もう、おまえの怒ってる顔は見たないねん。それと、このめがね。自分を戒めるためにも預かっとく。これ見たら、二度と軽はずみな行動、取られへんやろ? 」
信雅は目の前のがり勉女をもう一度じっくりと見た。
そして腰をかがめ、いかにも賢そうにぎゅっと引き結んだ唇にまたひとつキスを落として、玄関に向かう。
ノブ君のあほ……。めがねがなかったら運転できひんのに……とつぶやくような小さい声が後ろから聞こえる。
信雅は早菜の柔らかい唇の感触を思い出し、再び胸が高鳴るのをしっかりと感じていた。