20.顔に書いてある
弟、信雅視点、続きます。
「あら、大変。ビールがもう無いわ」
「あっ、じゃあ、僕が買いに行って来ましょうか? 商店街のコンビニなら、開いていますから」
加賀屋先輩が腰をあげようとすると、父がまあまあと言って制止する。
「宏彦君、いいよ、何も君が行かなくても。おいっ! ノブ! おまえ、行って来い! 」
ほろ酔い気分の父が威勢よく信雅の肩を叩いた。
「あら、お父さん。この子はまだ未成年なのよ。そんなことしたら、お店にも迷惑をかけるわ。なら、私がひとっ走り行って来ようかしら」
「いえ。僕が行きます。信雅、行くぞ」
先輩の表情に何か含みを感じ取った信雅は、はいと言って立ち上がり、上着を手にして部屋を出た。
外は風もなく穏やかだったが、吐く息の白さが、まだ二月であることを如実に物語る。
それはちょうど、斜め向かいのがり勉女の家の前だった。
先輩がふいに立ち止まり夜空を見上げ、そして、なあ信雅と口を開いたのだ。
「あれで良かったのかな? 俺、ちょっと強引だったかもしれないな」
ズボンのポケットに手を入れたまま、先輩が自信なさげにそうつぶやいた。
さっきの結婚させてください宣言のことを言っているのだろう。
いやはや、さすがにあの即行攻撃には、信雅も舌を巻いたが、気難しい父を瞬時に丸め込み、有無を言わせる暇もなくあの場に居た皆を納得させた先輩の行動は、見事だったとしか言いようがない。
「よかったっす。先輩、めっちゃカッコ良かったやないですか。おとんもえらい先輩のこと気に入ってしもて」
「だったらいいけどな。おまえ、前もって俺のこと、親父さんに言ってくれてたんだろ? 」
「まあね。でもあのおとん、典型的な天邪鬼な性格やから、俺が先輩のことをいいように言えば言うほど、おまえの言うことは信用ならんの一点張りで。帰って来るなり、おかんにも噛み付くし。ホンマやっかいなおっさんなんですよ。でもね、ひとつだけ入れ知恵しときましたから」
「入れ知恵? 」
ポケットから手を出した先輩が眉間にしわを寄せ、むっとしながら腕を組む。
「先輩、そんな顔せんといてくださいよ。変なこと教えたわけちゃいますから。うちのおとん、東京生まれの埼玉育ちなんです。で、ご他聞にもれず、所沢のあのパ・リーグ球団の大ファンなんですわ」
先輩の眉間のしわが、ふっと緩む。
「加賀屋先輩も、おとんの同士やでって、神戸に向かう電車の中で吹きこんでおきましたから。俺に野球を仕込んだんは、おとんなんですけど。青より縦じま好きになってしもた俺に、育て方間違えた言うて、嘆き悲しんでる日々やったから」
「あははは。そうなのか? 俺の親は二人して、縦じま命だからな」
「ええ! ホンマですか? そりゃええわ。うちのおかんも姉ちゃんも、野球はさっぱり興味なしやから、おもろないのなんの。いやね、先輩のお父さん、なんか俺と周波数が一緒なんと違うかなって、ちょっとだけ思てましてん。紳士っぽく見えてるけど、実は……ってな感じで」
「おまえ、鋭いな。素の親父は、信雅の見立て通りだよ。見かけはあんな風だけど、根っこはバリバリの関西人気質だからな。で、おまえ。何かそわそわしてるけど、約束でもあるのか? 俺たちのせいで、おまえに迷惑かけてるんじゃないかと思って、さっきから気になってたんだ」
信雅は、はっとして先輩を見ながら、口をつぐむ。
「遠慮せずに言ってみろよ。用があるなら抜けてもいいぞ。皆には俺が適当に言っといてやるから」
「いや、べ、別に。用があるわけじゃないんですけど。ただね、先輩と姉ちゃんがあのまま帰ってこなかったら、多分、ここから逃げ出してました。でも待っとったおかげでええもん見せてもらえたし。ホンマ、ラッキーやったと思ってます。俺も将来その日が来たら、先輩を見習って、カッコええとこ彼女に見せたいなあ……」
「なあ、信雅。おまえも、誰か会いたい人がいるんじゃないのか? 」
「へっ? 俺が、ですか? 」
信雅は、指で自分を指し、口をぽかんと開ける。
そしてしばらく考えた挙句、顔の前でひらひらと手を振った。
「いませんよ、そんな人。第一俺は今、東京暮らしなんですよ。神戸にそんな人、おるわけないですやん。先週、バイトをクビになったとたん、それまで付き合っとったカノジョにも振られるし……。先輩がうらやましいわ。ねえねえ、先輩。なんで相手が姉ちゃんなんですか? 結婚したいって思うくらい、姉ちゃんのことが好きなんですよね? 俺、そこまで好きになった人、まだ一人もおらへんしな……」
「おまえねえ……。あたりまえのこと、いちいち聞くなよ。おまえも早くいい人見つけろ。案外近くにいたりするもんだぞ。俺みたいにな」
「ははは。世の中、そんなにうまくいきませんって。この近くのどこに、そんな人がいるって言うんです? おらへん、おらへん。先輩。そろそろ買いに行きましょうよ。姉ちゃんから、遅いって怒鳴られますよ」
「そうだな。そろそろ行くとするか。そうだ、おまえは来なくていい。行きたいところ、あるんだろ? 」
「えっ? 」
「顔に書いてあるぞ。まあ、がんばれ。じゃあな」
そう言って軽く右手を上げる。
「せ、先輩、待ってくださいよ! 」
掛け声に振り向くことなく、先輩の姿は瞬く間に暗闇に消えて行った。
信雅は、立ち止まったまま、冷たくなった両手で顔を覆ってみた。
いったいここに何が書いてあると言うのだろう。
それに、そわそわして落ち着きの無い自分を先輩に見破られたことにもショックを受ける。
信雅は、はあと情けないため息をつき、目の前の馴染みの家を見上げた。
二階の角部屋のグリーンのカーテンから灯りが漏れている。
がり勉女のことだ。たまに実家にもどった今でも、ノートを広げてテキストを睨みつけているに違いない。
小さめの石を拾い、窓の横に重なった雨戸にコンとぶつけてみた。
信雅のサウスポーは、まだまだ健在だ。
シャッとカーテンが開き、窓からよく見知った顔が覗く。
「誰? ノブ君? 」
「よおっ! 」
「そんなところで何やってんの? 」
「えっと……。ウォーキング」
両手をおもいっきり高く振り上げて、わざとらしくウォーキングをアピールする。
「最近、身体がなまってしもてな……って、それどころと違うねん。あんなあ、めっちゃすごいネタがあんねんけど」
「ネタ? 」
「そう。ホンマに、すごいネタやで。おまえの大好きな澄香ネタや」
「お姉ちゃんの? なに、なに? 何があったん? そんなとこおらんと、早くこっちに上がっておいで。それと。あたしのこと、おまえって言わんといてって、いつも言ってるやん。今度言ったら、もう絶対に車乗せたらへんし。あんたの女の尻拭いもせえへんで。わかったら、はよおいで」
信雅は今夜見たこと聞いたことを、誰かに言いたくてたまらなかった。
子どもの頃から、姉の澄香を神のようにあがめて慕っているこのがり勉女こそ、一番に話して聞かせるのにふさわしい相手だと思ったのだ。
もしかして、顔に書いてあった会いたい人というのが、がり勉女のことだとしたら……。
それならハズレではないが、先輩の思うような趣旨は残念ながら一切含まれていないと断言できる。
信雅は姉の結婚話を暴露した時のがり勉女の驚く顔が見たくて仕方なかっただけなのだから。
ふっふっふっと、ひとりでに漏れる笑いを堪えながら、慣れ親しんだ玄関の戸をガチャっと開け、おじゃましますと軽快な声を響かせた。