19.始まりの予感
「へっ? 」
「うおーーっ! な、な、なんでやねん! 」
母親と瓜二つだとの噂が絶えない色白の姉が、ひょっこりと顔をのぞかせ、大きな目をよりいっそう大きくして、目の前でおもいっきり後にのけぞる弟をまじまじと見ているのだ。
「ノブ……マサ? なんで、あんたがここにいるの? 」
それはこっちのせりふだと言いたいのをこらえ、なんとか体勢を立て直す。
インターフォンなど鳴らさずに、自分で鍵を開けて入ってくればいいものを、紛らわしいことをするからこんなことになるのだ。
信雅はちっと舌打ちしつつも、改めて姉の顔をじっくりと見る。
会うのは半年ぶりくらいだろうか。
少しやせたのか、頬のラインがすっきりしたように見える。
グロスが取れているにもかかわらず、赤みを湛えた唇がなまめかしく上下にぷるんと揺れる。
いつのまにこんなにきれいになったのだろう。
それもこれも、全てが始まったばかりのこの恋のせいだとするならば……。
姉は、驚いた顔のまま後に立つ人物を見上げる。
姉の視線の先にいる人は……。
姉をますます美しく仕立て上げた犯人でもある、加賀屋先輩、その人だった。
信雅は、反射的に両足をそろえ背筋を伸ばすと、誰にも見えないエア野球帽を左手で脱ぎ、腰を深く折り曲げる。
「せ、先輩! 久しぶりっす! 」
あれほど念入りに撫で付けていた前髪のM字が、すっかり折り詰め弁当のバラン状態になってしまっても、気にすることなく頭を下げ続ける。
「おうっ。信雅。元気だったか。おいおい、いい加減、顔を上げろよ。ここはグラウンドじゃないんだから」
「は、はいっ! では、お言葉に甘えて。先輩、遅いですやん。待ってる方はどれだけ大変やったか」
信雅は、急に背骨が溶けてなくなってしまったかのように、へなっと背中を丸め、手当たり次第に女の子をノックアウトさせると評判の甘いマスクを、おしげもなくへん顔風に歪める。
「ねえねえ、どういうこと? それに、さっきの質問にもまだ答えてないでしょ? ねえ、信雅。なんとか言いなさいよ! 」
「もうっ、やいやいうるさいなあ。姉ちゃんは黙っとき。それがね、先輩。実は先輩の……」
信雅が口に手をやり声をひそめたとたんに、ガチャっとリビングのドアが開き、すき間から加賀屋夫人が顔をのぞかせる。
そして、それに合わせるようにして和室の襖が空き、加賀屋氏が遠慮がちに顔を出した。
姉と先輩は目が点になったまま、いるはずのない二人を見て、口をぽかんと開けている。
「おじゃましてます、澄香ちゃん。あらあーー。高校の時より、一段ときれいになって。うちの息子にもったいないくらい素敵だわ。宏彦、遅かったじゃない! どこに行ってたの? 」
「はあ? んなもん、どこだっていいだろ? 」
玄関に突っ立ったままの先輩が、眉をぴくっと上げる。
「メールしても返事もないし。ホント、しょうがない子ね。今夜は、あたしたちも池坂さんにお招き頂いたのよ。だって、是非とも澄香ちゃんに会いたいじゃない。ご迷惑は百も承知で、お父さんと一緒に押しかけちゃった。ふふふ」
にっこりと満面の笑顔を浮かべる加賀屋夫人に、照れくさそうにちらちらと姉を見ている加賀屋氏。
事態を読み取った先輩が、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして。
「おやじまで。いったい何やってんだよ……。どーりで家にいないと思ったら……」
なんだ、ここにいたのかよ……とやってられないとでも言うように首を振り、力なく彼の両親を睨む。
信雅は笑い出しそうになるのを必死で堪えて、先輩に言った。
「……ってなわけです。さあ、早く中に入ってください。うちのおとんとおじさんの世話は先輩に任せますから。あれはホンマ、かなわんわ……。それと先輩。姉ちゃんによー言うといて下さい。先輩に食べられた後はちゃんとグロスをぬり直せって……い、いてえーーーっ! 」
姉に聞こえないように、ひそひそ話をしているつもりだったが、彼女の強力な平手打ちが間髪いれずに信雅の前頭葉を直撃した。
信雅は額をさすりながら、父親の横に腰を下ろす。
早くここから抜け出したいと思いながらも、この後のことが気になり、ついつい居座ってしまうのだ。
加賀屋氏の横に並んで座った、本日の主役である二人の表情が、次第に緊張感を帯びてくる。
母親達が運んできた寄せ鍋が、テーブルの中央でくつくつと音を立てる。
しんと静まり返った室内で、鍋の中の豆腐がぐらぐらと揺れた。
「あらあら、そんなに堅くならないで。こうやって、加賀屋さんのご家族と一緒に夕食囲めるのも、何かのご縁よね。さ、信雅。皆さんに飲み物をおすすめして」
「へい! お安い御用で」
待ってましたとばかりに、瓶ビールを手にした信雅が立ち上がり、慣れた手つきでそれぞれのグラスに注ぎ分ける。
先輩のグラスに注ごうとした瞬間、彼の手が瓶の口を握り、それを拒んだ。
「信雅、ありがとう。今はまだいいよ。それより……」
先輩は両手を膝に載せ、信雅の両サイドにいる両親を交互に見た。そして、意を決したように頷き、口を開いた。
「今夜は、このような席を設けていただいて、心から感謝しています。澄香さんのお父さんもお母さんも、あまりに突然のことに、きっと驚かれたことと思います」
まさに今、乾杯の音頭を取ろうと身構えていた父親が、突如グラスから手を離し、先輩をじっと見据える。
「僕の両親も、それは同じだと思っています。今朝まで、澄香さんとのことは何も言ってませんでしたから。それで……」
先輩の視線が、信雅の隣で息を詰めて座る父親に真っ直ぐに注がれる。
信雅は世紀の一瞬を迎えるような高揚感に見舞われ、崩していた足をきちんと折りたたみ、姉と先輩の一部始終を見逃すまいと、前髪のすき間からじっと目を凝らした。
「まだ、澄香さんとの交際すら認めていただいていないのですが……」
これは来る。まるで自分が先輩の立場になったような気がして、信雅は手に汗握って身を堅くした。
先輩はきっと、いきなり止めを刺すつもりなのだ。
隣で不安そうに先輩を見上げる姉に優しく微笑みかけると、再び父親に向き直り、きっぱりと言ったのだ。
「澄香さんと。結婚させてください。お願いします」 と。
先輩は、そのまま畳に手をつき、深々と頭を下げた。