18.とばっちり
弟信雅視点になります。
母親の小言など完全に無視して、着のみ着のままの信雅は、客間の和室で父親の横に座って、ついさっき我が家に訪れたばかりの加賀屋夫妻に、どーもと言って、ぺこりと頭を下げる。
初めて見る先輩の両親に怪しまれない程度に、こそこそと彼らの表情を覗き見た。
先輩に良く似た顔立ちの加賀屋夫人は、かなり若く見える。
歳がいくつかは知らないが、自分の母親より五歳以上は若いに違いない。
もし同い年、あるいは年上だとしたら……。これは大問題だ。
バイトで稼いだあかつきには、母にエステのチケットと、ヒアルロン酸配合飲料を進呈しようと密かに心に決めた。
加賀屋氏は……。信雅の父親に負けず劣らず、頑固そうな感じは拭えない。
ただ、立ち居振る舞いが洗練されていて、英国紳士のような優雅な雰囲気が漂っているのが救いでもある。
腹を割って話せば、案外いい人なのかもしれない、そう思わせる雰囲気を持った人だ。
……にしても。なんと居心地の悪い空間だろう。
父親同士は、お互いをけん制し合うように沈黙したままだ。
その場をなごませようと、必死に話題を振ってくる加賀屋夫人が気の毒になる。
「えっと、信雅君、だったわね。今、大学何年生かしら」
「一年です。来期も一年のままやったりして……。はっはっはっは……はっ……」
父がうおっほんと、これみよがしに咳払いをする。
これ以上何も言うな、黙れ、と言う合図だ。
単位が不足していても一応は二年に上がれるしくみらしいが、四年で卒業する自信などこれっぽっちも持っていない信雅は、調子に乗って言わなくてもいいことまでつらつらとしゃべってしまう。
「ま、まあ。そうなの? 大学のお勉強って、大変だものね」
信雅を気遣いながら、加賀屋夫人が尚も話し続ける。
「えっ? ぜーんぜん。いっこも大変なことないですよ。講義中は寝とってもええし、親切な友達が、ノート取ってくれるし。おれ……いや、ぼくは、大学では、視野っちゅうもんを広げられたら、それでええんちゃうかなと、そう思てます。勉強は、ついでに? みたいな」
「信雅! いい加減にしろっ! 」
父のこぶしが、背中にずしっとめり込む。
だから、こんな所に来るのはいやだったのだと思ってみても、もう遅い。
自分のせいで、姉と先輩の関係が破綻した場合、どうすればいいのか、皆目検討がつかない。
「あの……。美津子さんは、どうしたのかしら? 」
加賀屋夫人が部屋の中をきょろきょろと見回す。
「おかん……いや、母は台所におるんと違うかな? あっ、ええですよ。おばさんは、ここにおってください」
立ち上がろうとする加賀屋夫人を、なんとか引き止めようと試みる。
ここから彼女がいなくなったら、残された男三人でどうしろというのだろう。
信雅は気が気でない。
「いや、そういうわけにはいかないわ。私もお手伝いしてくるわね。じゃあ」
「お、おばさん……」
伸ばしかけた腕を振り切るようにして、加賀屋夫人が部屋から出て行った。
夫人の上着をつかみ損ねたその腕は、哀愁を漂わせながら虚しく空をさまよう。
信雅はもうどうにでもなれと、さっき母がうやうやしく皆の前に出した緑茶をいっきにのどに流し込む。
そして両手を後につき、木目のくっきり浮かび上がった天井を仰ぎ見た。
リビングと繋がっている台所から、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
母親同士は仲がいいのかもしれないが、この和室のどよんとした空気の責任はいったい誰が取るのだろう。
信雅は無性に腹立たしくなってきた。
そうだ。それもこれも、あの二人が早く帰って来ないのがいけないのだ。
どこで何をやっているのか知らないが、姉と先輩の顔を思い浮かべ、クソッ! と悪態をつく。
と同時に二人の父親の冷ややかな視線が信雅に注がれた。
いっそのこと、ここから逃げ出してやろうかとも思う。
こんなことになるのなら、斜め向かいに住む幼なじみのがり勉女のところにでもかくまってもらった方がましだなどと、究極の選択にあっさりと答えを出してしまった。
がり勉女は、その名のごとく、日本国内屈指の東京にある超難関大学に通っている、ひとつ年上の幼なじみだ。
一浪なので、信雅と同じ学年だが、もちろん彼女の在籍する大学が、信雅には全く無縁であることは言うまでもない。
姉の澄香を幼い頃から慕うこのがり勉女とは、同郷のよしみというだけの繋がりで、たまに連絡を取り合う関係でしかない。
しかし、あまりにも女性にだらしない信雅を見かねて、助け舟を出してくれる羅針盤のような存在でもあるこの人に、姉よりも母親よりも、頭が上がらない。
車を持っている彼女が帰省のたびに声をかけてくれるのをいいことに、今回も東京から父親の居る三重まで乗せてもらった経緯がある。
今からそこに逃げ込んで、あわよくば帰りも東京まで送ってもらえたらと都合のいいことばかり考えている信雅が、ふいに鳴り響くインターホンの音に、心臓をドキリとさせた。
今ごろ誰だろうと首をかしげながら、父親と顔を見合わせる。
姉だろうかとも思ったが、鍵を持っているはずの姉がインターホンを鳴らすはずがない。
「ノブ君。出て。お願い! 」
母親の声が廊下に響く。
やっとここから脱出できる口実が見つかったと喜び勇んで立ち上がり、いそいそと玄関に向かう。
どうせ回覧板か新聞の勧誘だろう。
それでもかまわない。
こんな恐ろしい空間に閉じ込められていることを思えば、たとえ宅配便であっても、喜んでハンコをつきに行く準備は出来ていた。
玄関脇の鏡に自分の姿を映し、前髪のM字とジーンズのずらし加減を調節して軽くポーズを決め、勢いよくドアを開けた。