16.二人で その2
「宏彦。連れてきてくれて、ありがとう」
「お安い御用だよ。いつでも連れてきてやるぞ。けどな」
「けど、何? 」
澄香は顔を後に向け、宏彦を見る。
「澄香以上にきれいなものなんて、この世の中のどこにもないから。俺は。澄香だけをずっと見ていたい……」
澄香の胸が、ぞわっと大きく揺れ動いた。
宏彦が言ったことがすぐに信じられなくて、ぽかんとして前に向き直る。
その時、彼の唇が頬をかすめたのだが……。
澄香はそれすら気づかないまま、神戸の街を、ただ呆然と眺めていた。
ドクンドクンと刻む心音だけが、脳裏に鳴り響く。
この暗闇の中、宏彦と二人きりでいるような感覚に引き込まれていき、いつの間にか、光の海の中に身も心もふわふわと漂っていた。
「車、実家に置いていくけど。澄香はどうする? 先に澄香の家に寄って、降ろそうか? 」
「えっ? あ、ああ。どうしようかな? やっぱ、あたしも宏彦と一緒に行く。だって、宏彦の家、まだよく知らないの。だから場所だけでもちゃんと覚えておきたいし」
「え? 知らないって? こんなに長年近所に住んでて、知らなかったんだ。わかった。なら、そうしよう」
車に戻った後も、澄香はぼんやりしていた。
宏彦にきれいだと言われてから、調子が狂いっぱなしだった。
車のドアにコートの裾を挟むし、シートベルトを装着し忘れて叱られるし……。
恋をするときれいになると言うけれど、あながち嘘ではないのかもしれない。
朝はあんなに腫れていた瞼も、今ではいつもどおりにもどっている。
宏彦の部屋を出る時に鏡を覗いたら、睡眠不足のわりに肌つやも良かった。
今日だけは、彼の言ってくれたことを素直に受け止めようと思った。
一生に一度くらい、誰かにきれいだと言われる日があってもいいよねと自分に言い聞かせながら……。
「宏彦、ありがと」
澄香は、唐突に感謝の言葉を口にする。
「えっ? 何が? 」
宏彦が不思議そうに澄香を見た。
澄香は、首をかしげる宏彦を横目で見ながら、くすっと笑って肩をすぼめた。
澄香の家の前を一旦通り過ぎて加賀屋家に向う。
車を車庫に入れた後、荷物を置きに家に入った宏彦が、怪訝そうな顔をして、澄香の待つ玄関前に出て来た。
「親父もお袋も、どこかに出かけてるみたいだ。誰もいないよ。車は俺が使っていたし、どこに行ったんだろう……」
「宏彦の帰りが遅くなると思って、近所に食事にでも行ったとか? 」
「そうかもな」
澄香は少しほっとする。
というのも、いい大人があいさつもせず、知らん顔をして立ち去るわけにもいかず、緊張した面持ちで宏彦の両親を待っていたのだ。
いないと言われてほっとするような、残念なような……。
複雑な感情が心の中を行き交う。
「それじゃあ行こう。さあ、お姫様。そろそろ参りましょうか? 」
宏彦は中世の貴族のようにおどけて見せ、澄香の手を取り歩き出した。
時には三枚目も演じ分けるこの彼氏に、澄香は目を細め、ますます心を奪われていくのを止められないでいた。
家の前まで来ると、先に門扉を開けて中に入ろうとする澄香を引き止め、宏彦がその場に立ち止まった。
「宏彦、どうしたの? 」
ただならぬ宏彦の様子に、心がざわめく。
まさか、ここまで来ておきながら、やっぱり親に会うのはやめるとか?
「澄香。最後にもう一度、確認しておきたい」
「確認? 」
「ああ。今から俺は、ご両親に、付き合うことだけではなく、結婚のこともきちんと伝えるつもりだ。俺には澄香しかいない。こんな俺だけど……。本当にいいんだな? 」
宏彦の目が澄香を真っ直ぐに射抜く。
もちろん、答えはひとつだ。
「宏彦がいい。宏彦じゃなきゃ、あたしも誰とも結婚しない。宏彦も、あたしでいいの? 」
「あたりまえだろ? もし、澄香のご両親に反対されたり、親父さんに殴られるようなことがあっても。俺はあきらめないから。何度でも説得する。絶対に結婚を認めてもらえるよう、頭を下げ続けるつもりだ」
「宏彦……。その時は、あたしも一緒にお願いする。あなたとの結婚を認めてもらうためなら、どんなことでもする。だから大丈夫」
「そうだな。大丈夫だよな……」
リビングの窓から明かりが漏れ、中からにぎやかな声も聞こえてくる。
「澄香。行くぞ」
「うん」
澄香は大きく息を吸い込み、空を見上げた。
凍てつくような空気は、今の澄香にはちょうど心地よく胸に染み渡る。
星がキラキラと瞬く。
風がきんと鳴った。
そうだ。これからはずっと宏彦と一緒に生きていくのだ。
もう何も迷うことはない。
オリオンは、今夜も空高く棍棒を振り上げて地上を見下ろしているのだろうか。
すっと背伸びをして、隣に立つ彼の頬に優しく口付ける。
びっくりして目を丸くしている愛しい人をすぐそばに感じながら、澄香はもう一度、星空を見上げた。