13.雪の日の誓い その1
「澄香……。俺、昨日のことは全部夢だったんじゃないかって、朝からずっとそう思ってた。でも信じていいんだよな? 俺たち、これからもずっとこうやって一緒に居られるんだよな? 」
宏彦のすがるような声が、澄香の首筋に熱い吐息とともに降り掛かる。
「本当は神戸に帰したくなんかないんだ。このまま朝までここに引き止めておきたい。澄香を離したくない……」
「ひろひこ……」
澄香を抱きしめる力がより一層強くなり、宏彦の気持ちがダイレクトに伝わってくる。
「高二の時、初めて同じクラスになって、池坂澄香を知れば知るほど、俺の心の中で澄香の存在が大きくなって。でも、木戸の気持ちを聞かされていた俺は、自分の本心を隠して、心の奥底に押しとどめておくことばかり考えていた。高一の夏に、ひじを痛めて、投手どころか野球そのものも続けられないような状態になったことがあったんだ」
澄香は初めて聞く話に驚き、振り返ろうと身体をねじる。
「澄香、動かないでそのまま俺の話を聞いて」
「あ、うん……」
振り返るのをあきらめた澄香は、彼に背を預けたまま、じっと話を聞き続けた。
「木戸は、ずっと根気よく俺を説得して、治療して野球を続けろと励ましてくれた。その後のリハビリにも付き合ってくれて。そんな木戸を裏切れるわけがなかった。自分の気持ちに嘘をついてでも澄香への思いを隠し続けることが、真の友情だと思っていたんだ。そして何年も月日が流れ、今やっと、あこがれの人のぬくもりを腕の中で感じることが出来るようになって。俺がどれだけ幸せな気持ちでいるかわかるか? だから、どんなことがあっても。二度とこの手を離したくないんだ」
澄香の手から、宙に浮いたままのカップをもぎ取った宏彦は、シンクの横にコトンとそれを置き、彼女の手を両手で包み、ぎゅっと力を込めた。
澄香は宏彦に何と答えればいいのか言葉が見つからなかった。
今は、頷くことしか出来ない。
あたしだって離れたくない、宏彦と同じ気持ちだよ、と。
「でもな……。窓の外を見て」
澄香は宏彦の腕の力が緩んだのを見計らって後ろを振り返り、レースのカーテン越しに外を見た。
雪だ。
さっきまでやんでいたのに、向かいのアパートがぼんやりとしか見えないくらい、激しく降っていた。
「降ってるね、雪」
今度は宏彦と向き合う形になって彼の目を見て言った。
「ああ。この調子だと、あと一時間も降れば、高速道路も閉鎖されるかもしれない。電車だってどうなるか……。本当に帰れなくなるぞ」
「そうだね。でも……。宏彦と一緒なら帰らなくてもいい。ずっとここにいる。明日、ここから出勤すればいいよ。だって、だって。宏彦と離れるのは、もういやなの! 」
澄香は宏彦の胸に頭をつけるようにして、下を向いたまま、まるで駄々をこねる子どものように、いやいやと首を振る。
「澄香……。お母さんを裏切ることになるけど、いいの? 」
「えっ? 」
澄香が顔を上げ、目を丸くする。
「ここに泊まるってことがどういうことか、わかって言ってるのか? 」
澄香の背に宏彦の手が触れそのまま抱き寄せられる。
そして髪の上から何度もかすめるような口付けを受け、立っていられなくなる前に、宏彦にしがみついた。
「澄香のお母さんに、俺なら安心してまかせられるって言われた。つまり俺を信じてるから、澄香を頼むってことだろ? なのにここに引き止めたらどうなる? 」
「宏彦……。あたしだって、ここにいればどうなるかってことくらい、わかる。宏彦と。そうなりたいと、思ってる。あたしも宏彦も、もう子どもじゃない。いい大人だよ? 親の顔色ばかり伺ってても、ちっとも前に進めないもの」
澄香は宏彦の目を見て、必死の思いで自分の気持ちを伝える。
わかっているのだ。
母親の心配する気持ちも、それに応えようとする宏彦の思いやりも。
でも八年越しの片想いがようやく実った今、お互いの想いを確かめ、より深め合うためにも、ここで引き下がるわけにはいかない。
宏彦が澄香の瞳をじっと見つめたあと優しく唇を合わせてくる。
夕べ、オリオン座の下で交わしたキスと同じように、それはとても柔らかく温かい。
ところがいつの間にか激しさを増し、宏彦の息遣いが荒々しく変ってきた。
それから先は、澄香も全く経験の無い未知の世界だったのだ。
宏彦の手が澄香の衣服を乱し、さっきまで座っていたベッドの上に、重なり合って倒れ込む。
なのに宏彦は、そんな大胆な行動とは対極にあるかのような優しい目をして澄香を見つめ、しなやかな指先で彼女の頬を繰り返し撫でる。
そして、その指の後を、熱を帯びた唇が頬から首筋へとゆっくりと辿っていくのだ。
澄香がぎゅっと瞼を閉じたその瞬間、宏彦の動きがピタッと止まった。
「澄香……。目を開けて」
このまま目を閉じてじっとしていればいい。
宏彦にすべてを委ねれば、きっと大丈夫と自分に言い聞かせる。
その間、おびえるように震えていることすら気付かなかった澄香は、突如重みが消えて自由になった身体をもぞもぞと動かし、彼に請われるがままにゆっくりと目を開けた。