12.京都 その2
「あははは……。澄香が言ったんだろ? 何でもかまわないって。そんなとこで拗ねてないで、ベッドに座って待ってて。出来上がったらそっちに運ぶから」
ほいっ! と言って渡された住宅雑誌を受け取って、澄香はベッドのそばで立ち止まった。
小説やマンガではよくある彼の家のベッドの上というこの展開に、俄かに緊張感が増す。
だが座るところといえばここか床しかない。
カーペットも何も敷いていないフローリングの床はスケートリンクさながらにひんやりとしていて、ストッキング一枚の澄香の足の裏はすでに氷のように冷たくなっていた。
他の選択肢が無い状況で、澄香はためらいながらもベッドにそっと腰を下ろす。
ついでに足もベッドの上に引き寄せて横座りになりながら住宅雑誌を広げた。
ところが必死に文字を追ってみても一向に内容が頭に入って来ない。
気付けば、全く関係のない泉北や枚方方面のページばかりをめくっている。
家を探すのを早々にあきらめた澄香は、コーヒーの準備に忙しい宏彦の後姿をちらちらと眺めながら、今までメールだけでは知りえなかった彼のいろいろな面を思い浮かべていた。
車の中の手作りクッションや今のコーヒー豆のこと。
冗談とはいえ、泊まって行くかと言ってみたり、隙を見ては手を重ねてきたり。
あるいは、雑然とした室内の様子もそうだ。
次々と明らかになる宏彦の本来の姿に驚きながらも、ますます彼が愛おしく思える自分にあきれたように首を振る。
澄香の目に、宏彦の後姿が映る。
程よい肩幅と、澄香より二十センチ近く高い背。
アーガイル模様のセーターがしっくりと馴染み、コーデュロイの紺のパンツとの相性もいい。
いつしかうっとりとした目で宏彦に見とれていた澄香は、彼がカップを手にしてこちらに振り向いた瞬間、あわてて住宅雑誌の適当に開いたページに視線を戻した。
「飲めよ。寒かっただろ」
「ありがとう」
澄香は、さもたった今宏彦に気づいたかのように顔を上げ、コーヒーを受け取る。
「ここ端部屋だから、余計に冷えるんだ。もうすぐしたらエアコンも効いてくるから」
「そうだね。ちょっとずつ、温かくなってきた感じがする」
「なあ、澄香」
「な、何? 」
突然真顔になった宏彦に、ドキッとして訊き返す。
「さっきからずっと、俺を見てたろ? 人に見られて嬉しいと思ったのは今が初めてだ」
澄香の横に並んで腰を下ろしながら、宏彦がぬけぬけとそんなことを言う。
彼に全てを見透かされていると知った澄香は、慌てて目を逸らし俯く。
一度も、後を向かなかったはずなのにどうしてわかったのだろう。
宏彦の勘が良すぎるのか、それとも彼が振り向いたのを澄香が気づかなかっただけなのか……。
原因究明を早々にあきらめた澄香は、コーヒーカップを両手で包むようにして持ち、ふうーっとさましながら一口飲んでみた。
家のコーヒーと同じ味がする。
少し渋みを感じた後、口の中いっぱいに香りが広がるのだ。
ミルクもたっぷり入っていて、ひときわまろやかさが引き立って……。
「なあ澄香。さっきの店で、ミルクをどばーっと淹れただろ? まさかあそこまで淹れるなんて、俺も自分の目を疑ったけど。それでよかったのか? 」
まだ下を向いたままの澄香を覗き込むようにして、宏彦が訊ねる。
「う、うん。ありがと。ミルク多めが好きなんだ。宏彦の淹れてくれたコーヒー、とてもおいしいよ」
冷えていた身体も徐々に温まり、次第に落ち着きを取り戻す。
宏彦が飲み終えた後も、まだはふはふしながらカップを抱えている澄香は、池坂家きっての猫舌だ。
「澄香。飲むの、おそっ。ちょっと貸せよ」
そう言って強引に澄香のカップを横取りした宏彦は、ふーっと何度か息を吹きかけて冷ました後、再び澄香に渡した。
「これで大丈夫だろ? これからミルクは、冷たいままの方がよさそうだな」
「あ、ありがと……」
宏彦に冷ましてもらったコーヒーをごくごくと飲んだ澄香の頬が、これ以上ないくらい赤く染まっていく。
彼の心遣いが嬉しくて、そして、ほんの少し、恥ずかしくて……。
こんなに近くで身体を寄せ合ってコーヒーを飲む日が来るだなんて。
嬉しさと、緊張と、恥ずかしさと。そして、幸福感と。
すべての感情がミックスされてふわふわと空中を浮遊するような感覚が澄香を包み込む。
本当に幸せなひと時だった。
何もしゃべらなくても、彼と同じ空間にいるだけで、心が満たされていく。
コーヒーを淹れてもらったお礼に、今度は澄香が片づけを買って出る。
洗うのはカップ二つとコーヒーメーカー周辺の器具のみだ。
数分で終わるだろう……というのは誤算だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
あと少しというところで、突然宏彦に後ろから抱きしめられる。
すすいだばかりのカップを持った手が空中に止まったと同時に、危うく呼吸まで……。
停止しそうに、なった。