11.京都 その1
宏彦の勤務する会社の京都支店は四条烏丸にあり、そこから北方向に車で二十分ほど行った左京区に寮がある。
もう少し北に行けば季節の移り変わりを楽しめる宝が池があり、鞍馬や大原、比叡山方面への足がかりになる地でもある。
名所案内に熱弁を振るう宏彦に耳を傾けているうちに、いつの間にか寮の近くまでたどり着いていた。
いつもより若干車が少ないのか、わりとスムーズに大通りを抜けられたと、宏彦がさも満足そうに説明する。
寮の近くは大学も点在しているので、単身者用のアパートやマンションも比較的多い地区のようだ。
少し雪が降ったのだろうか。
芝生や生垣の上に白く薄っすらと積もっている。
心なしか、車の中も、さっきより冷えてきたような気がする。
思わず首をすくめてぶるっと震えた。
「澄香、大丈夫? 」
宏彦が、心配そうに訊ねる。
「雪を見たら、急に寒くなっちゃった。内緒なんだけど、実は背中にカイロ、貼ってるんだ。だから大丈夫だよ。でも、やっぱ、神戸より寒い気がする」
「だろう? 京都の冬は神戸とは比べ物にならないほど寒いよ。だから、背中のカイロは正解! 海好き澄香は、冬は苦手なんだ、あははは! 」
「んもう、宏彦ったら。そんなに笑わないでよ。なんか恥ずかしいし……」
こんなことならカイロのことは内緒にしておけばよかった。
やっと風邪も治ったことだし、予防のために身体を冷やさないようにしていただけだ。
「京都は雪もよく降るし、たまに積もることもある。最近は温暖化のせいか、降る回数も減ってるみたいで、俺がこっちに住むようになってからは、そんなに雪で困ったことはないけどな」
「そっか。昔はもっと雪が多かったんだね」
「ああ。社寺に行くと、雪景色の写真もよく展示しているからな。うーーん、今日の空はなんか怪しい。この後降るかもしれないから、早めに家を出るようにしよう」
「えっ? でも、あたし……」
ついさっき、泊まってもいいと言ったばかりなのに。
勇気をふりしぼって、そう言ったのに……。
なのに宏彦は、すぐにでもとんぼ返りするようなことを口にする。
「なあ、澄香。俺がさっき言ったこと、冗談だから。そんなに簡単に、男の部屋に泊まってもいいとか……言うな」
澄香は、あっ……と言ったきり、言葉が続かなかった。
でも実のところ、泊まってもいいなどと言っておきながら、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、後悔している自分もいたのだ。
小心者の自分が情けない。
宏彦の部屋に泊まっていいわけがない。
いや、そもそも泊まる勇気など、どこにもなかったのかもしれない。
いくら宏彦のことが好きだといっても、二人きりで長い時間を過ごしたことなど、これまで一度もないのだ。
それでいきなり朝までずっと一緒にいたとしたら……。
ドキドキしすぎて胸が苦しくなり、あっという間に降参してしまうのは目に見えている。
宏彦はきっと、そんな澄香の本心を見抜いていたのだろう。
京都に着いたばかりだというのに、もう帰りのことまで心配してくれる彼の言葉通り、早めに家まで送ってもらうのが得策なのかもしれないと思い始めた。
管理人の許可証をもらい、寮の敷地内にある来客用駐車場に車を停める。
二階の東の端にある部屋に向かい、宏彦の後をついて階段を上がった。
室内は八畳ほどのワンルームで、作り付けのベッドと机、そして大き目のクローゼットが備えてあるだけの簡素な部屋だった。
夕べここの主が帰らなかったせいか、かなり冷えている。
エアコンの表示温度はたったの九度。
宏彦は机の上のリモコンを手にするとボタンを押してエアコンを稼動させ、澄香のコートと自分の上着を椅子の背もたれに掛けた。
「こんなところにコートをかけてごめん。実は、ハンガーを吊るすところがなくて。クローゼットは荷物が詰まってて、本来の機能を失ってるんだ。開けると、たまに雪崩が起きることもある」
そう言って、ニヤッと笑う。
室内を見渡したところ、あちこちに本が散らばっていて、部屋の片隅には脱ぎっぱなしの服が山を作っていた。
澄香はなんだかおかしくなって、くすくす笑い始める。
部屋の片付けは苦手だとメールでこぼしていたのは、嘘ではなかったのだ。
一人暮らしがそんなにいいものではないと言っていた理由を見つけた気がして、妙に納得してしまった。
宏彦が玄関脇にある小さなミニキッチンに置いてあるコーヒーメーカーをセットして、スイッチを入れた。
豆を挽く甲高い音が鳴り、ほのかに香ばしさが漂う。
思えば宏彦の一人暮らしは大学時代に遡る。
澄香よりよほど台所の家事には慣れているのだろう。思いのほか手際がいいことに驚く。
「このコーヒー豆は神戸から持って帰っているんだ。お袋が近所の喫茶店で直接分けてもらってるらしいぞ」
「もしかして喫茶Fじゃない?」
「そうだけど。てことは、澄香のところも? 」
「うん。父が好きなの。あたしはインスタントでも何でもかまわないんだけどね」
「へえ……。じゃあ、澄香だけこれにする? 」
宏彦が意地悪そうな笑みを浮かべ、御馴染みのゴールドラベルがついた瓶入りのインスタントコーヒーを、澄香の目の前にぬっと掲げる。
「そ、そんなあ……。あたしも一緒がいい。宏彦って、ホントはこんなにイジワルなヒトだったんだ。ヒドイよっ! 」
澄香は1階に人がいるのも忘れて床を踏み鳴らす。