5.初恋のヒト その1
約束の一時間をなんとかやり過ごしたが、澄香は三本目のビールになってもまだ酔えなかった。
それは、仁太に対して警戒心があるから、とか、ただ単に澄香が酒に強いから、とか。そういった単純な理由ではない。
人のいい楽天家、吉山仁太との最初で最後の二人きりの食事中であるにもかかわらず、さっきのメールの送り主のことが、一時も澄香の頭から離れようとしないのだ。
彼女の心中を見抜いているかのように、仁太もメールの着信以来、全く澄香に話しかけることはなかった。
店内も徐々に混み始め、仁太のグラスが空になったのを区切りに、二人で店を出る。
家まで送ると言った仁太を駅構内に残したまま、澄香は乗りなれた私鉄のホームに駆け込んだ。
電車を降りた後、バスで十五分程揺られると、澄香の家がある小高い丘陵の街に着く。
まだまだ街は眠らない。
もうすぐ時計の針が、八時を指そうとしていた。
会社までは徒歩と乗り物の待ち時間を入れても四十分ほど。通勤には手ごろな距離だ。
よってアパートを借りる必要もなく、当然のごとく実家から職場に通っている。
もちろん澄香も世の独身族と同様、一人暮らしに憧れていないわけではない。
このまま独身期間が続くのであれば、来年あたり独立しようと考えているのだが、過保護な彼女の親がクビを縦に振る可能性は、当然低いと言わざるを得ないだろう。
そんな澄香を愛して止まない家族が彼女を温かく出迎える家の明かりが、だんだんと近づいてくる。
仕事帰りにビールを飲み、あまり酔ってないとはいえ、赤い顔をしているのは間違いない。
少し引け目を感じながらも、澄香は玄関戸を開け、パンプスをぬぎながら母親が待つリビングに向かってただいまと声をかけた。
すると奥の台所からスリッパの音をパタパタさせながら、母親が駆け寄ってくる。
「あら、おかえり。今日はちょっと遅かったわね。ご飯は? 」
澄香の目の前に現れた母親と共に、揚げ物のおいしそうな匂いまでもが一緒に玄関になだれ込んでくる。
そうだ、今夜はコロッケだったんだ。
今朝母親が今夜のおかずはコロッケよと言っていたのを思い出し、澄香はひとり納得して、大きく息を吸い込んだ。
「コロッケのいい匂い。でも残念だけど、夕食、食べてきたんだ……。連絡しないでごめんね。そうだ。今晩のおかず、明日のお弁当に詰めるから、おいといてくれる? 」
「わかったわ。澄香の大好物だものね。……あら? なんか目が赤いわね。いや、顔全体が赤いわよ。もしかして……。飲んできた? 」
「う、うん。ちょっと……ね」
別に隠す必要も無いのに、視線を逸らしてしまう。
これではまるで、テストでいい結果が出せず、母親に本当のことが言えない小学生のようだ。
「珍しいこともあるわね。誰と? 」
なぜかこの日は、執拗に澄香に問いただそうとする。
普段、友人と食事をしたり買い物で遅くなっても、何も聞かないのに、だ。
「か、会社の人と」
「そう……。そんな人ができたんだ。もしかして彼氏? 」
母親の目がなぜかいきいきと輝く。
「お母さんったら、な、何を言うのよ。あははは……。カレシなわけないじゃん。ただの同僚。同期のメンバーなんだ」
澄香は、さも残念そうに口をへの字にして見せるが、母親は一向にひるむ様子を見せない。
「ふふふ。知ってるのよ。いつもメールしてる人でしょ? いい加減紹介してくれてもいいんじゃない? もう長いはずよね。その人とのお付き合い……」
勝ち誇ったような母親のしたり顔にたじろぎながらも、澄香は必死になって言い訳を続ける。
「ええ? ち、違うったら! 本当に違うんだってば。メールやってるのも、その、ただの友達だし。今日飲んでた人も、ただの同僚だよ。そもそも別人なの! その二人は! 」
澄香は、いつになくムキになり、声を張り上げた。
実は本当は、後ろめたいんです……と立証してるような態度であることに、澄香はまだ気付いていなかった。




