8.誰よりも幸せな涙 その2
澄香の弟の信雅は中央高校で野球部に所属していた。
つまり宏彦の後輩にあたる。
大学生だった宏彦が神戸に帰省した時、OB対現役部員の練習試合で信雅とは何度か交流があり、面識もある。
「あいつの人気は並大抵じゃなかったからな。もちろん野球のスジもよかったけど、周りの女達の騒ぎ方が半端じゃなかった」
「ごめんね。迷惑かけてたんじゃないかな」
「ははは……。でも応援がないよりは活気があっていいんじゃないか? にしても、たかだか練習試合で、応援団引き連れてくるんだぞ。あれには驚いた。相変わらず、女たちに追い掛け回されてるのかな? 」
「うん。誰に似たのかわかんないけど、大学でもファンクラブまでできてるみたいなの」
「ファンクラブ? それはすごいな! 」
「なんだかね……。あたしには、よくわかんないし。昔は何でも言うことを聞いて、かわいい弟だったんだけどな……。もう家族なんてどうでもよくなっちゃって、ちっとも家に寄りつかないんだ。いまに女の人から恨まれて痛い目に遭うんじゃないかと、ヒヤヒヤしてるんだから」
「あははは……! くれぐれも澄香の第六感が当たらないことを祈るよ。でもな、あいつに最近言われたことがあるんだ」
急に神妙な顔つきになった宏彦が声のトーンを落とし、澄香に唇が触れんばかりに近づく。
「ねーちゃんのメールの相手、先輩ですよね? ってな。澄香があいつに教えたわけじゃないんだろ? 」
「ど、どういうこと? あたし、加賀屋君とのメールのこと、家族の誰にも言ってないよ。それに信雅ったら、OB会には出ても、そのまますぐに東京にとんぼ返りだもの。家には顔を見せないから、夏以降会ってないし……」
寝耳に水とは、まさしくこういうことを言うのだろう。
母親ですら見抜けなかった宏彦との関係を、あのチャラ男な信雅が知っていたとは……。
澄香はショックのあまり、思わず握っていたハンカチを床に落としてしまった。
「おい、大丈夫か? 」
宏彦がさっと席を立ってハンカチを拾いテーブルに載せる。
「あ、ありがとう。それにしてもびっくりしちゃった。まさか信雅が……」
「実はそれだけじゃないんだ。……早いとこ手え打たないと、ねえちゃん狙ってる会社の人、本気ですよって、とどめを刺された。あいつ男女の絡みになると妙に嗅覚が冴えるみたいだからな」
別に今更二人の関係がバレたからと言って不都合はないのだが、家族に無関心なはずの弟が裏でそんな動きをとっていただなんて、ますます理解に苦しむ。
信雅に澄香の動向を吹き込んだのはいったい誰なのか。
母親が吉山の存在に気付いたのは年が明けてしばらく経ってからだから、出所は別だ。
ということは……。
チサだ。チサならば説明がつく。
夏の休暇にチサと一緒に東京近郊のテーマパークに行った時、母親に頼まれて信雅の暮らしぶりを偵察に行ったことがあった。
イケメン好きのチサは信雅を見るなり興奮して、瞬く間に意気投合し、軽いノリでアドレスの交換をしていた。
チサのことだ。吉山のことをしっかり信雅に報告していたに違いない。
澄香は、自分の知らないところでそうやって周りから助けられていたことに驚くと同時に、弟のとった行動も、今となっては、ありがたかったと思う。
「ねえ、加賀屋君。もし信雅がいなかったら……。あたしたち、こうやって一緒にいることなんて、なかったのかもしれないね」
「どうして? 」
ミモザサラダを食べる手を止めて、宏彦が澄香を不思議そうに見る。
「だって、高校の時。あの子が置き忘れた算数のプリントを取り違えて持っていったおかげで、加賀屋君としゃべるようになって。それで、あなたのこと。す、好きになったんだし……。今回だって、こっそり応援してくれてたみたいだしね」
「まあ確かにそうかもしれないが……。でも勘違いしないでくれよ。俺はあの時ぶつからなくてもきっと、いや絶対、澄香を好きになってたから。きみの飾らないところ、何に対しても一生懸命なところ、ちょっと抜けてるところ……。全部好きだ。木戸のことでは、もうどうしようもないくらい俺の精神状態はボロボロになったけど、澄香の真っ直ぐな瞳に見つめられるたびに、あきらめないぞ、負けないぞと自分を奮い立たせてきた」
「加賀屋君……」
「澄香にふさわしい男になるために、勉強も仕事もがんばれたんだ。大学の入学式の時にくれたメール。どれだけ嬉しかったかわかるか? 俺自慢じゃないけど、超能力も霊感も、そういったたぐいのものは一切持ち合わせていなくて、何のとりえもない人間なんだけど、あの時だけは何か感じるものがあったんだ。これから先、ずっと澄香と繋がっていけるって思った。不思議だろ? 澄香がメールを送ってくれる限り、いつかは気持ちが通じるんじゃないかって……。えっ? お、おい! 澄香、どうしたんだ? 泣くなよ……」
澄香は一度床に落としたハンカチをためらうことなく握り締め、次から次へとあふれる涙をぬぐう。
こんなにも自分を思ってくれる人が宏彦でよかったと、心からそう思った。
どれくらい、そうやって泣いていたのだろう。
メインプレートを運ぶタイミングを見失ったホールスタッフの大きなため息など、澄香の耳に届くはずもなく。
世界中の誰よりも幸せな涙を流すことを許してくれた宏彦に、心の中で何度も何度も、ありがとうと感謝の言葉を繰り返した。