7.誰よりも幸せな涙 その1
「こうやって澄香と二人きりで会えるなんて、ほんとに、夢みたいだ……」
澄香をじっと見つめながら、宏彦が言った。
重ねられた手に一瞬力がこめられる。
澄香は周りの客が自分達を見ているような気がして内心落ち着かない。
「加賀屋君……。あ、あのう、人前だし……」
澄香はごそごそと居心地が悪そうに身体を動かし、手を引っ込めようとする。
辺りを見回した宏彦が、ようやく自分の行動の大胆さに気づいたのか、あっと呻くような声を発した後、名残惜しそうに手を自分のひざにもどした。
「ごめん。つい……」
宏彦ははにかみながら、たった今運ばれてきたばかりの水をごくりとひと口飲んだ。
「さっきのことだけど……」
テーブルの上に載せた自分の手に視線を落としながら、宏彦がとつとつと話し始めた。
「さっき? あ、もしかして、神戸と京都の中間点の話? 」
澄香は車の中での話を思い浮かべる。
きっと寮を出るというあの話しのことだろう。
「ああ、そうだ。引越しの話だよ」
宏彦が顔を上げ、澄香の目をじっと見る。
澄香も吸い寄せられるように宏彦の目を見つめた。
食器の重なる音と、斜め向かいに座る女性の二人連れの小さな話し声が時折澄香の耳をかすめる。
それにピアノの伴奏に合わせて奏でるバイオリンのメロディーは、クライスラーの愛の歓びだろうか。
なんてうっとりとするような音色なんだろう。
そして、とうとう周りの音が何も聞こえなくなると、ゆっくりと動きはじめる宏彦の唇に目を奪われた。
「……結婚しよう。なあ澄香。俺と結婚してくれる? 」
澄香は、大きく目を見開き、息を呑む。
微動だにせず、ただ宏彦の顔をじっと見た。
そして遠慮がちにこくりと頷く。
宏彦の口元が微かに緩んだ。
澄香は慌てて目を逸らし、おしぼりを手にして、指の一本一本まで念入りに拭く。
手のひらも手の甲も。手首の近くまでしっかりと。
拭き終えると長方形の小さなタオル地の布をきれいに折りたたんで、元通りにしてかごに戻す。
じっとなんかしていられない。
どこか身体を動かしていないと、震えているのがばれてしまう。
結婚しようだなんて。
いったいどうすればいいのだろう。
うんと頷いたものの、それ以上何を答えていいのか、全く見当もつかない。
仮にも今日は、初めての彼とのデートなのだ。
いきなりプロポーズだなんて、本日の澄香の予定には全く組み込まれていない、イレギュラーな案件だ。
いや、これは立派に事件なのかもしれない。
落ち着きを失い不可解な行動を取り続ける澄香を、それでも尚宏彦は、じっと見ていた。
その視線とぶつかった時、澄香は、もうこの状況から逃げも隠れも出来ないと知る。
「加賀屋君。あたし、加賀屋君と……結婚する。こんなこと、すぐには信じられないけど。もう一分だって一秒だって、あなたと離れてなんかいられないから」
言った後、身体がすーっと楽になった。
どんどん自分の心が解きほぐれていくのがわかる。
何重にも巻きつけられていた鉄の鎖がゆっくりと解かれていくように、心が次第に軽くなっていく。
まるで魔法にでもかかったかのように、身も心も自由になった自分が、思いをすべてありのまま言葉にしてしまう。
恥ずかしさなんて、もうどこにも存在しなかった。
宏彦はほっとしたようにため息をつき、少し頬を赤らめて、ありがとう嬉しいよと答えた。
「俺はこれでも、澄香に結婚を申し込むのが、遅すぎるくらいだと思ってる。たとえメールだけの付き合いだったとしても、その間も俺たちは、お互いを想い合っていたわけだしね。俺だって一分一秒、いや千分の一秒だって、きみと離れてなんかいられない。木戸と張り合うつもりはないけど、明日にでも結婚したいと思ってるくらいだ」
「加賀屋君、ありがと……。なんか夢みたい。あたし、こんなに幸せでいいのかな? 」
「いいに決まってるよ。もっともっと幸せにならないとな」
運ばれてきたスープを飲みながら、澄香は幸せをかみしめる。
「でもね、加賀屋君のご両親は、あたしのこと認めてくださるかな? まだ結婚は早いって言われちゃうかもしれないね」
「その時はちゃんと説得するから安心して。俺の方はどうにでもなるけど、澄香の方が大変かもしれないぞ? まだ嫁にはやらんとか親父さんに言われそうだな。さーて、いろいろ対策をねらなければ」
「対策だなんて、そんなの必要ないって。だってうちの親、あたしに浮いた話ひとつないって、いつもヤキモキしてたんだもの。喜んでくれると思う」
「信雅と比べられて、澄香姉さんも苦労してたってわけか」
宏彦はおもしろがるように口の端を少し上げる。
「もうっ! なんでここで信雅の話になるのよ。加賀屋君のイジワル」