5.恋の中間点 その1
宏彦が運転する車に乗るのはもちろん初めてだ。
彼がオーディオのボタンをしきりに触って音の調整をするのも、ウィンカーを出さずに曲がる前の車に向かって、ちっと舌打ちするのも、全て初めて見る宏彦の姿だ。
心拍数がようやく標準値に戻り、気持ちにゆとりが出てくると、今度は車の中の様子が気になり始める。
ゆったりとした五人乗りで、落ち着いた感じのセダンだ。
家族で共有しているのだろうか。
後部座席にはフリル付きの手作りカバーが掛けられたティッシュが無造作に置かれていた。
その横にあるクッションは色とりどりの刺繍糸でステッチが施され、どこかなつかしさを覚える。
澄香はふと家のソファに置いてあるクッションを思い浮かべていた。
色違いだが、車の中のクッションとそっくりだと気づく。
なつかしい気持ちになったのはきっとそのせいだ。
中学生の頃、母親がPTAの講習会で作ったのとよく似ているのだ。
いや、同じものかもしれない。
たったそれだけのことだけど、なぜか嬉しくて、ほっこりとした気持ちになる。
そんな澄香の心の中を読み取ったかのように、宏彦が笑顔をまといながら話し始めた。
「この車、おやじ名義のだけど、ほとんどお袋しか乗ってないからな」
澄香の母親は免許を持っていないので、少し不思議な感じがする。
今年になってから、駅前のスーパーで宏彦のお母さんを見かけたことがあるが、いつまでも若くて、随分ときれいな人だったという印象がある。
「へえ、そうなんだ。そう言えば、うちの母が言ってたっけ。加賀屋君のお母さんに迎えに来てもらって、ランチに出かけたって」
「そんなことも言ってたな。にしても、シートカバーとかティッシュカバーとか、全体的に趣味悪いだろ? そのクッションもいつのか知らないけど、自分で作って愛着があるとか言って、一向に車から降ろさないんだ」
心の底から嫌そうにそんなことを言う宏彦に、澄香は思わず噴き出しそうになる。
「悪いけど、今日はこの車で我慢してくれ」
「この車、ゆったりしてて乗りやすいし、中の色合いとか女の子っぽくてあたしは好きだけど」
「あはは。そう言ってもらえると、お袋も喜ぶだろうな。俺もそろそろ自分の車が欲しいけど、会社の寮を出るまでは我慢しようと思ってるんだ。それと……」
これは、前にメールでもやり取りした内容だ。
寮には個人の駐車場がないから、別の場所に借りるとなると、かえって不便なんだ……と。
それと……と言いかけたまま、また沈黙が続く。
どうしたのだろう。運転中の宏彦の横顔を、こそっと覗いてみた。
「四月には寮を出るつもりだから……」
気付かれたのだろうか。
しっかりと前を向いたままなのに、タイミングよく、彼からそんな答えが返ってきた。
でも、寮を出るなんて、あまりにも唐突すぎる。
今までそんな話は全く聞いていない。
「寮を出てどうするの? 便利な所にマンションでも借りるのかな。それとも、神戸に戻ってくるの? 」
まさか、転勤?
澄香の思考は次第に悪い方へと傾いていく。
すると、赤信号で車を停車させた宏彦が、澄香の方に振り向いた。
「神戸にはもどらないつもりだけど、澄香がそうして欲しいって言うのなら考えてもいいぞ」
転勤じゃないようだ。
澄香はほっと胸を撫で下ろす。
「そこで、相談だ。前にメールで、将来は結婚後も仕事続けるって言ってたよな? 澄香の職場の福利厚生って、結構整ってるんだろ? 」
「うん。先輩たちもみんな子育てしながら職場復帰してるよ。だから、あたしもそのつもりだけど。でもね、結婚ったっていつの話かわかんないし、一生、このままかもしれないし……」
突然の話の展開に面食らいながらも、一般論として、さりげなく答えたつもりだったのだが。
まさか宏彦の口から結婚という二文字が出てくるなんて、誰が想像しただろう。
たとえ自分のことではないとしても、このような話は楽しい。
彼と世間一般の結婚について話せるなんて、ちょっとわくわくする。
「なら、三宮と京都の中間点ってどこだと思う? 距離だけでなく電車の便なんかも考慮しないとな。JR沿線か私鉄沿線か……」
「そうだね。どっちがいいかな。特急の停まる私鉄沿線なら便利かも」
澄香はことの真意などあまり深く考えずに、どのあたりが中間点だろうかと生真面目にいろいろな地名を思い浮かべていた。
吹田、茨木あたりかな……などと頭の中に地図を描く。
が。でもどうして三宮と京都の中間点なんだろうと疑問が湧く。
実家に近い方が便利だから?
それとも、こうやって澄香と付き合うようになったことで、たびたび会うためには少しでも神戸に近い方がいいと思ったからなのだろうか。
宏彦に会うためなら、別に京都だってかまわない。
電車に乗れば1時間もかからずに京都駅に着く。
「ねえ、加賀屋君。やっぱり会社に近い方が便利なんじゃない? あたしは京都でいいと思うけどな。それとも京都は賃貸料が高いとか? 」
澄香は宏彦のことを思ってそう答えたのだ。
なのに。
「澄香は何もわかってないんだな」
アクセルを踏み込みながら、怒ったような口調で言う。
いったい何が気に入らなかったのだろう。
「俺はね、今隣にいるお姫様に、結婚後もずっと仕事を続けてもらいたいから、中間点って言ってるんだけど? 何なら西宮か尼崎くらいでもいいぞ。俺は京都から遠くなっても平気だから。考えといて」
そう言った後、宏彦は憎たらしいくらい平然とした面持ちで、尚も西に向かって車を走らせる。
そして、海を見に行こうかなどと、まるで独り言のようにつぶやくのだ。